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���本の海軍軍人
Yajima Junkichi
The basics
Quick Facts
Intro
���本の海軍軍人
Places
Gender
Male
Age
58 years
Awards
Order of the Sacred Treasure, 4th class
The details (from wikipedia)
Biography
矢島 純吉 (やじま じゅんきち、1865年12月16日(慶応元年10月29日) - 1924年(大正13年)5月15日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。山形県出身。
奈良県大和神社の神職となり、「大和史料」の編纂に携わった後、生地酒田市の上日枝神社社司を務めた斎藤美澄(さいとう よしずみ)は実兄である。
人物
1886年(明治19年)12月7日、海軍兵学校(12期)卒業。1888年(明治21年)海軍少尉に任じられ比叡分隊士となる。以後、佐世保海兵団分隊長心得(海軍中尉)、海軍兵学校水雷術教官(海軍大尉)、横須賀水雷団第1水雷艇隊艇長(海軍少佐)佐世保水雷団佐世保水雷敷設隊司令(海軍中佐)、舞鶴水雷団長(海軍大佐)等を歴任。1911年(明治44年)12月1日、海軍少将に昇進し第5代海軍水雷学校校長に補される。同職を3年ほど務め待命、1915年(大正4年)12月1日、海軍中将に任じられるが、同日付けで予備役編入。1921年(大正10年)10月20日、後備役編入。1924年(大正13年)5月15日 卒去。
年表
- 1886年(明治19年)12月7日 - 海軍兵学校(12期)卒業 1988年(明治21年)に江田島に移転する海軍兵学校は、当時築地にあった。卒業式には明治天皇も臨席した。卒業生19名の首席は江頭安太郎で、矢島純吉は9番の成績だった。同年2月から286日をかけて軍艦筑波に乗艦し、ニュージーランド、オーストラリア、ハワイを巡った卒業前の遠洋航海練習について、江頭安太郎が天皇の御前で演述を行った。同期には山屋他人、有馬良橘等がいて、後に江頭安太郎の三男と山屋他人の五女が結婚し、孫には文芸評論家であった江藤淳、曾孫には皇后雅子がいる。
- 1888年(明治21年)
- 1月13日 - 任 海軍少尉
- 1月16日 - 補 比叡分隊士
- 1888年(明治21年)4月9日 - 補 日進分隊士 兼 航海士
- 1889年(明治22年)
- 6月6日 - 補 満珠分隊長心得
- 8月2日 - 海軍大学校丙号学生
- 1890年(明治23年)3月25日 - 補 筑波分隊士
- 1891年(明治24年)
- 1月7日 - 補 迅鯨乗組
- 7月23日 - 補 筑波分隊長心得
- 11月20日 - 補 佐世保海兵団分隊長心得
- 1892年(明治25年)
- 6月29日 - 補 筑波分隊長心得
- 12月21日 - 任 海軍大尉、補 海軍兵学校水雷術教官 兼 監事
- 1893年(明治26年)12月20日 - 補 海軍兵学校水雷術教官 兼 副官
- 1894年(明治27年)12月5日 - 補 呉水雷隊攻撃部艇長
- 1895年(明治28年)
- 2月22日 - 補 常備艦隊第4水雷艇隊艇長
- 10月28日 - 補 呉水雷隊攻撃部艇長
- 12月27日 - 補 金剛水雷長
- 1896年(明治29年)
- 11月17日 - 補 金剛水雷長 兼 分隊長
- 11月21日 - 補 龍田水雷長 兼 分隊長
- 1897年(明治30年)
- 5月14日 - 補 呉鎮守府水雷庫主管 兼 仮呉兵器製造所検査主幹
- 5月25日 - 補 呉鎮守府水雷庫主管 兼 呉海軍造兵廠検査科主幹
- 1898年(明治31年)
- 2月22日 - 任 海軍少佐
- 3月8日 - 補 横須賀水雷団第1水雷艇隊艇長
- 6月28日 - 補 横須賀水雷団第1水雷艇隊艇長 兼 水雷艇不知火回航委員長
- 10月19日 - 補 横須賀水雷団第1水雷艇隊艇長 兼 水雷艇雷回航委員長
- 10月28日 - 補 竹敷要港部水雷艇隊艇長 兼 水雷艇夕霧回航委員長
- 1899年(明治32年)
- 6月15日 - 帰着
- 7月6日 - 補 竹敷要港部第1水雷艇隊艇長
- 1900年(明治33年)
- 5月15日 - 補 明石副長
- 6月1日 - 任 海軍中佐
- 7月10日 - 補 呉海兵団副長
- 1901年(明治34年)10月1日 - 補 佐世保水雷団佐世保水雷敷設隊司令
- 1902年(明治35年)
- 2月13日 - 補 高千穂副長
- 6月21日 - 免職 高千穂副長、待命。但シ横須賀ニ滞在スベシ
- 12月15日 - 補 大湊水雷団水雷敷設隊司令
- 1903年(明治36年)8月17日 - 補 佐世保水雷団第1水雷艇隊司令
- 1904年(明治37年)9月11日 - 佐世保鎮守府附
- 1905年(明治38年)
- 1月7日 - 補 第一艦隊駆逐隊司令
- 1月12日 - 任 海軍大佐
- 6月14日 - 第二艦隊駆逐隊司令
- 1905年(明治38年)
- 11月14日 - 待命
- 12月12日 - 補 舞鶴水雷団長
- 1906年(明治39年)11月22日 - 補 大湊要港部参謀長
- 1908年(明治41年)2月20日 - 補 出雲艦長
- 1910年(明治43年)
- 1月27日 - 補 呉海軍工廠艤装員
- 7月16日 - 補 安芸艦長 兼 呉海軍工廠艤装員
- 1911年(明治44年)
- 3月11日 - 免兼職、補 安芸艦長
- 5月22日 - 補 横須賀海兵団長 兼 壱岐艦長
- 12月1日 - 任 海軍少将、補 海軍水雷学校長
- 1914年(大正3年)12月1日 - 待命
- 1915年(大正4年)12月1日 - 任 海軍中将、予備役編入
- 1921年(大正10年)10月20日 - 後備役編入
- 1924年(大正13年)5月15日 - 卒去。墓所は愛宕の青松寺。
栄典・授章・授賞
- 位階
- 1891年(明治24年)1月29日 - 正八位
- 1893年(明治26年)1月31日 - 従七位
- 1895年(明治28年)11月26日 - 正七位
- 1898年(明治31年)4月16日 - 従六位
- 1900年(明治33年)8月8日 - 正六位
- 1905年 (明治38年)2月14日 - 従五位
- 1910年 (明治43年)3月22日 - 正五位
- 1915年(大正4年)
- 4月20日 - 従四位
- 12月28日 - 正四位
- 勲章等
- 1895年(明治28年)
- 11月18日 - 明治二十七八年従軍記章
- 12月26日 - 勲六等単光旭日章
- 1905年(明治38年)5月30日 - 勲四等瑞宝章
- 1906年 (明治39年)4月1日 - 勲三等旭日中綬章・功三級金鵄勲章
脚注
- ^ 『帝国海軍将官総覧』150頁
- ^ 荘内日報社「郷土の先人・先覚 74」
- ^ 『官報』第1362号「叙任及辞令」1888年1月17日。
- ^ 『官報』第1432号「叙任及辞令」1888年4月12日。
- ^ 『官報』第1780号「叙任及辞令」1889年6月7日。
- ^ 『官報』第1833号「叙任及辞令」1889年8月8日。
- ^ 日本海軍はなぜ敗れたのかー連合艦隊誕生から敗戦までの軌跡ー. 徳間書店. p. 30
- ^ 『官報』第2256号「叙任及辞令」1891年1月9日。
- ^ 『官報』第5689号「叙任及辞令」1902年6月23日。
- ^ 『官報』第8121号「叙任及辞令」1910年7月18日。
- ^ 『官報』第8314号「叙任及辞令」1911年3月13日。
- ^ 『官報』第8373号「叙任及辞令」1911年5月23日。
- ^ 『官報』第1001号「叙任及辞令」1915年12月2日。
- ^ 『官報』第2276号「叙任及辞令」1891年2月3日。
- ^ 『官報』第2875号「叙任及辞令」1893年2月1日。
- ^ 『官報』第3725号「叙任及辞令」1895年11月27日。
- ^ 『官報』第4436号「叙任及辞令」1898年4月18日。
- ^ 『官報』第5131号「叙任及辞令」1900年8月9日。
- ^ 『官報』第6494号「叙任及辞令」1905年2月25日。
- ^ 『官報』第8021号「叙任及辞令」1910年3月23日。
- ^ 『官報』第813号「叙任及辞令」1915年4月21日。
- ^ 『官報』第1024号「叙任及辞令」1915年12月29日。
- ^ 『官報』第3838号・付録「辞令」1896年4月18日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1895年12月30日。
- ^ 『官報』第6573号「叙任及辞令」1905年5月31日。
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