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Japan
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Tokuichi Fukiishi
Japanese baseball player

Tokuichi Fukiishi

The basics

Quick Facts

Intro
Japanese baseball player
Places
Work field
Gender
Male
Place of birth
Minabe, Japan
Age
71 years
Family
Stats
Height:
178 cm
Weight:
76 kg
Sports Teams
Osaka Kintetsu Buffaloes
The details (from wikipedia)

Biography

吹石 徳一(ふきいし とくいち、1953年4月2日 - )は、和歌山県日高郡南部川村(現在のみなべ町)出身の元プロ野球選手(内野手)・スカウト、野球指導者。

来歴

プロ入り前

実家は農家で、和歌山県立南部高等学校在学中の1970年に、秋季近畿大会和歌山県予選決勝で市和歌山商業高校に敗れた。翌1971年の夏の選手権県大会でも準々決勝に進出するが、新宮高校に敗退。結局、在学中には春夏とも、阪神甲子園球場の全国大会に出場できなかった。

高校卒業後に日本新薬に入社すると、社会人野球でプレー。1974年には、都市対抗に出場した。

1974年のNPBドラフト会議で、近鉄バファローズから4位指名を受けたことを機に入団。背番号は25で、同球団で現役を引退するまで一貫して着用していた。近鉄への入団に際しては、「3年経っても一軍に昇格できなければ、実家から分家して農業に携わる」という約束を家族と交わしていたという。

プロ入り後

入団2年目の1976年に、西本幸雄率いる一軍への初昇格を果たしたものの、翌1977年までは一軍と二軍を往復。内野手として登録されながら、チーム事情で外野を守ることもあった。

1978年から、当時の正遊撃手・石渡茂のバックアップ要員として一軍に定着。広島東洋カープと対戦した1979年の日本シリーズでは、第7戦(11月4日・大阪球場)で同点の9回裏にクリス・アーノルドの代走で起用されると、二塁への盗塁に成功。後に「江夏の21球」として語り継がれるシーンで江夏を揺さぶった。

1980年には、三塁手や遊撃手としてパシフィック・リーグ(パ・リーグ)公式戦77試合にスタメンへ起用されるとともに、12本塁打を放った。広島と再び対戦した日本シリーズでは、内野手として6試合にスタメン出場。第1戦で江夏から同点につながる犠飛、第2戦で逆転の3点本塁打を放つなど、通算で21打数8安打4打点という好成績を残した。

1981年には、不振の石渡に代わって正遊撃手の座を確保。パ・リーグの最終規定打席に到達するとともに、打率.245(リーグ34位)、10本塁打、48打点、13盗塁を記録した。石渡の復調や森脇浩司の成長などで、1982年に正遊撃手の座を外れてからも、内野のユーティリティプレイヤーとして一軍で活躍。1985年には、リーグ戦71試合でスタメンに起用されると、再び12本塁打を放った。

1988年には、チームのリーグ優勝がかかった10月18日・19日の対ロッテオリオンズ戦(川崎球場)において、故障で戦線を離脱していた金村義明に代わる三塁手としてスタメンに起用。18日の試合でシーズン1号本塁打を含む3安打を記録すると、いわゆる「10.19」として知られる19日のダブルヘッダーでも、第2試合の7回表に2号本塁打を放ってチームを一時勝ち越しに導いた。本人は翌1989年にも現役生活を続けるつもりでいたが、19日の第2試合(当時のリーグ規定による時間切れの引き分け)でリーグ優勝の可能性が消滅してからおよそ1週間後に、球団代表の前田泰男から二軍守備コーチへの就任を要請。入団当時の監督だった西本に相談したところ、「そういうチャンス(コーチへの就任要請)はなぁ、1年現役をやっても次、あるかないかわからんぞ。会社(球団)がそう言うてくれるんやったら、コーチをやれ」と勧められたため、この年限りで現役を引退した。

現役引退後

実際には、1989年から近鉄の一軍内野守備走塁コーチへ就任。現役時代の前年に果たせなかったチームのリーグ優勝に貢献した。2001年から、近畿地方担当のスカウトへ異動。近鉄球団がオリックス・ブルーウェーブへの吸収合併によって2004年限りで消滅したことを機に、2005年からは東北楽天ゴールデンイーグルスの近畿地方担当スカウトとして活動していた。2007年には、楽天の楠城徹編成本部スカウト部長が埼玉西武ライオンズスカウト時代の不祥事に関する責任を問われて解任(3月12日付で編成本部付への異動)に処されたことから、3月27日でチーフスカウトに就任した。

2012年11月30日付で楽天を退団したことを機に、2013年から日本新薬硬式野球部へ復帰。2013年にアドバイザー、2014年から2016年までヘッドコーチ、2017年から2019年まで監督を務めた。チームは、監督1年目の2017年に第88回都市対抗野球大会へ出場。2019年12月31日付で監督職を退任してからは、アドバイザーへ復帰するとともに、近鉄・楽天時代の経験を買われてスカウティング活動にも携わっている。

選手としての特徴・人物

俊足と堅守を持ち味に、内野の全ポジションをこなせるユーティリティプレイヤー。近鉄時代の一軍公式戦では、レギュラーの内野手にアクシデントがあった場合に登場するなど、主に守備要員として起用された。もっとも実際には、一軍での実働13シーズンで1,000以上の試合に出場。1981年にリーグの規定打席へ達したほか、3シーズンで2桁本塁打を記録していた。

近鉄時代のチームメイトであった羽田耕一、藤瀬史朗、梨田昌孝などと共に、1953年度生まれの選手で構成された親睦会「プロ野球28会」のメンバーでもある。

近鉄の選手時代には、ファンから「ここ一番の吹石」と呼ばれるほど、大一番で勝負強さをしばしば発揮。前述したように、「江夏の21球」や「10・19」など、日本プロ野球の歴史に残るシーンや試合に選手として関わっている。もっとも、1980年に日本シリーズへ出場してからは、「自身の立場が変わった年に一軍がパ・リーグで優勝する」という巡り合わせが続いた。現役を引退した翌年(1989年)には、コーチとして守備・走塁面を指導していた一軍が9年振りのリーグ制覇を達成。コーチからスカウトへ転身した2001年には、球団史上最後の優勝を果たしている。現場に携わっていなかった楽天も、退団の翌年(2013年に球団史上初のリーグ優勝と日本シリーズ制覇へ至った。このため、日本新薬の監督からチームアドバイザーへ戻った2020年には、「俺が監督を辞めたから、今年(2020年)は優勝するぞ」という言葉でナインを激励している。その一方で、前田からのコーチ就任要請(事実上の引退勧告)によって現役最後の試合になってしまった「10・19」の第2試合を、川崎球場で妻子に見せられなかったことを後悔しているという。

現役引退後の1999年11月21日に大阪ドームで催された近鉄対読売ジャイアンツのOB戦では、始球式に娘・一恵が背番号25のユニフォーム姿で登場したことから、ナインの計らいで捕手を務めた。

家族

  • 妻との間に2男1女がいる。長男・次男とも元野球選手で、長男は捕手、次男は投手であった。
    • 長男は、智辯学園高校から立命館大学へ進学。智辯学園高校時代には、2年時の2001年に第73回選抜高等学校野球大会・第83回全国高等学校野球選手権大会、3年時の2002年に第84回全国高等学校野球選手権大会へ出場した。
    • 次男は、社会人野球のOBC高島でエースを務めた後に、硬式野球部のある航空自衛隊千歳(千歳基地)へ移籍した。
    • 長女は女優・タレントの吹石一恵で、近鉄での現役選手時代から子役として活動。一恵がシンガーソングライター・俳優の福山雅治と2015年に結婚したことを機に、福山の義父にもなった。

詳細情報

年度別打撃成績

年度球団試合打席打数得点安打二塁打三塁打本塁打塁打打点盗塁盗塁死犠打犠飛四球敬遠死球三振併殺打打率出塁率長打率OPS
1976近鉄4830288400040430010140.143.200.143.343
19772815122200022120210020.167.200.167.367
197874635937001101621020190.119.161.169.331
19799510999141930331104240600200.192.238.313.551
1980109281249356282121103662144905317.249.285.442.726
19811264544124710113110146481381342302257.245.286.354.640
198282150139172630338133222700134.187.223.273.496
198367147132182860240204152800131.212.254.303.557
198486207189254770569205090702193.249.283.365.648
19851032992633364901210929841721205303.243.287.414.702
198686918212194022971250301151.232.267.354.621
19876084765150001541151200130.197.215.197.413
19885612311410305024110105030194.263.288.360.648
通算:13年10202053185422942458352644200572980178401820330.229.267.347.614

記録

  • 1000試合出場:1988年9月18日(日本プロ野球史上278人目)

背番号

  • 25 (1975年 - 1988年)
  • 81 (1989年 - 1999年)

脚注

  1. ^ “吹石徳一、10・19弾1週間後の引退勧告(1)/パ・リーグ伝説”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社). (2020年6月7日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/202006070000865.html?Page=1 2020年6月9日閲覧。 
  2. ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
  3. ^ “吹石徳一、10・19弾1週間後の引退勧告(2)/パ・リーグ伝説”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社). (2020年6月7日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/202006070000865.html?Page=2 2020年6月9日閲覧。 
  4. ^ 退団スタッフに関して”.東北楽天ゴールデンイーグルス公式サイト. 2012年11月30日閲覧。
  5. ^ 吹石一恵パパ、徳一氏が日本新薬監督に 孫とW喜び 日刊スポーツ、2017年1月3日閲覧。
  6. ^ 社会人野球・監督考 日本新薬・吹石徳一氏
  7. ^ 日本新薬・吹石監督、初陣へ打撃強化「全力で立ち向かう」
  8. ^ “元近鉄の吹石氏が日本新薬監督退任、今後はスカウト”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社). (2020年1月6日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/202001060000396.html 2020年1月7日閲覧。 

関連項目

  • 和歌山県出身の人物一覧
  • 大阪近鉄バファローズの選手一覧
  • プロ野球28会
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