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Tachibana Naoatsu

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The details (from wikipedia)

Biography

立花 通厚(たちばな なおあつ)は江戸時代の筑後国柳河藩藩主家立花氏一門。7代目藩主立花鑑通の三男。初め十時惟邑(下総)の婿養子で夫人は十時惟邑の娘。諱は通厚。立花一門家の一つである立花大学家の祖。立花鑑寛の母方祖父でもある。

経歴

宝暦11年8月23日(1761年9月21日)に柳川御花畠亭(現在の「御花」)にて出生。家老の十時惟邑の養子となり、立花家を出る。明和8年(1771年)から安永4年(1775年)の間の内容とされる資料とされる「分限帳」に『高弐千石 十時摂津』と『御合力米百俵 同(十時)友壽』と見える。

寛政元年(1789年)に長兄で柳河藩嗣子になっていた立花鑑門が死去すると、父の鑑通は十時家から呼び戻して嗣子に擁立しようとしたが、これを固辞して弟で、当時、立花茂雅(伊豆)の養子であった立花通弘(後の立花鑑一)を推挙した。

寛政3年7月23日(1791年)、通厚は十時家より貰い返されて立花姓に復すのを許可され、通称を大学と改称。

寛政5年(1793年)に今度は鑑一までも死去したので、再度父は通厚を藩主嗣子に立てようとするが、再度放棄し、弟の鑑寿にその権利を譲った。このために鑑寿は嗣子となり、そのまま鑑寿が寛政9年(1797年)に柳河藩主を相続した。

藩主となった鑑寿は通厚に合米700石を与えて分家させたが、これが立花一門家第二位の立花大学家の初めとなる。後に300石加増され、1000石となる。

天保9年2月13日(1838年3月8日)に死去。墓所は福厳寺 (柳川市)。

脚注

  1. ^ 元文3年(1738年)以降、柳川藩の奥(江戸幕府大奥に相当)機能は柳川城二の丸から御花畠に移転した
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