Suzuko Kaminaka
Quick Facts
Biography
上仲 鈴子(かみなか すずこ、1912年(明治45年)2月 - 1973年(昭和48年)1月)は、昭和初期の女性パイロット。1933年(昭和8年)、日本の女性パイロットとして初めて東京・大阪間無着陸飛行を達成。航空界を引退したのち、日本舞踊家・三味線奏者として芸道に生きた。日本舞踊では西川歳造、三味線では柏伊千蔵(かしわ いちぞう)を称し、本名は日本舞踊の師匠の養子になったために中村鈴子となった。
経歴
岐阜県大野郡高山町(現在の高山市)出身。生家は花岡遊廓で営業を行っており、幼少時より長唄や踊り、三味線の稽古をしていた。
高山高等女学校(岐阜県立高山高等学校の前身のひとつ)を卒業。
1930年(昭和5年)9月、18歳で上京し、千葉県津田沼海岸の伊藤飛行場にあった日本軽飛行機倶楽部に入る。19歳で二等飛行機操縦士免許を取得。
1933年(昭和8年)、東京・大阪間無着陸飛行(日本女性初という)。1935年(昭和10年)には高山郊外
1936年(昭和11年)、千葉県船橋在住の日本舞踊の師匠である西川扇歳(本名は中村ふく)の養女となる(飛行士時代に知り合い、意気投合したという)。その勧めもあり、幼少時よりたしなんでいた三味線のプロの演奏者となることを決意。菊五郎劇団の邦楽部である菊音会の試験で認められ、三味線奏者となった。一時は歌舞伎座にも男装して出演したが、まもなく女性であることを理由として歌舞伎座への出演は断たれたという(歌舞伎の演奏=地方(じかた)は男性のみで行うのが伝統とされており、中村征子によれば女性の出演は60年以上にわたって他に例がないという)。
以後、養母とともに、船橋と高山で三味線と日本舞踊を教えた。高山では日本舞踊末広会を主宰。1971年(昭和46年)には東京・虎の門ホールで創作舞踊「山・川・海」を発表した。
脚注
注釈
- ^ 生家は明治中期の遊廓建築を維持し「旅館かみなか」として続いており、2010年時点で鈴子の甥が三味線の柏伊千蔵の名を継いでいる。
- ^ 村山(2007年)が紹介する「戦前の女性飛行士一覧」(元は『ヒコーキ野郎』1977年6月号に掲載された「戦前の女性飛行士一覧表」(日本婦人航空協会監修))では、1930年(昭和5年)10月3日に二等飛行機操縦士免状を取得とある。実の姪であり、日本舞踊と長唄の弟子であった中村征子(日本舞踊家としては西川征歳)によれば、「初志達成」は1932年(昭和7年)という。平木国夫『飛行家をめざした女性たち』を参考文献に挙げる中広の「岐阜県初の女性飛行士 上仲鈴子の生涯 天晴れ!」によれば、1930年(昭和5年)9月に日本軽飛行機倶楽部に入部、「3か月後」に単独飛行を許され(その時の手記が紹介されている)、「その5か月後」に三等飛行機操縦士免状を、「さらにその5か月後」に二等飛行機操縦士免状を取得したとある。
- ^ 現在の高山市上野町と高山市丹生川町新張にまたがる一帯の通称で、当時は草原であった。
- ^ 歌舞伎座に出た頃より「男装の麗人」と謳われたという。後年は基本的に男装で通していた。
出典
関連文献
- 平木国夫『飛行家をめざした女性たち』(新人物往来社、1992年)
- 関根虎洸「諸国ホテル漫遊記 飛騨高山の「旅館かみなか」 上仲鈴子編」『月刊ホテル旅館』58巻7号(柴田書店、2021年7月)
関連項目
- 第二次世界大戦前の日本の女性飛行士