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Japan
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Suibara Chikakiyo
Japanese military commander

Suibara Chikakiyo

The basics

Quick Facts

Intro
Japanese military commander
Places
Work field
Gender
Male
Birth
Age
48 years
The details (from wikipedia)

Biography

水原 親清(すいばら ちかきよ)は、安土桃山時代から江戸時代前期の武将。

生涯

天正11年(1583年)蘆名氏家臣・栗村盛胤の子として生まれる。

天正12年(1584年)6月、父・盛胤が松本行輔と共に蘆名盛隆に謀叛を起こして討たれたため、祖父の長沼城主・新国貞通に養育された。天正18年(1590年)に貞通が豊臣秀吉によって改易された後、慶長3年(1598年)の上杉景勝の会津入封の頃までには、上杉家臣・水原親憲に出仕していたものと考えられる。上杉家臣の頃には、新国庄蔵と名乗っており、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは親憲の下で慶長出羽合戦に従軍し、長谷堂城からの撤退戦で水原隊の一員として活躍し、戦後に親憲から感状を与えられている。

元和5年(1619年)、親憲の跡を継いでいた憲胤を誘って共に米沢藩より出奔した。憲胤は福井藩に仕え、庄蔵は川越藩主酒井忠利の子・忠勝(のちに若狭国小浜藩主)に仕えた。水原所左衛門親清と称したのはこれより以降のようである。

この時、忠勝の求めに応じて自らの従軍経験を書き残した。この筆記録は、延宝8年(1680年)に近江の国枝清軒によって軍記物『東国太平記』として仕立てられ、また宮川尚古の『関ヶ原軍記大成』にも大きな影響を与えた。しかし、親清が酒井家に奉公していたのはわずか数年間のことで、元和年間のうちには忠勝の下を離れ、出羽国新庄藩主・戸沢政盛に仕官して知行300石を与えられた。

寛永8年(1631年)10月1日死去。享年49。子孫は新庄藩士として続いた。

脚注

  1. ^ 『新庄藩系図書』巻之七に載せる「水原家系図」では、親清は親憲の弟で、のちに養子となったとしており、米沢藩出奔後はそのように自称していたものと考えられる(編:大友義助「新庄藩系図書2」『郷土資料叢書』第16輯 山形県新庄図書館 1984)。
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