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Japan
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The basics

Quick Facts

Places
Gender
Male
Birth
Age
30 years
Family
The details (from wikipedia)

Biography

水谷 勝美(みずのや かつよし)は、江戸時代前期の大名。備中国松山藩3代藩主。官位は従五位下・出羽守。

略歴

2代藩主・水谷勝宗の次男として誕生。

寛文12年(1672年)2月8日、初めて4代将軍徳川家綱に御目見する。延宝4年(1676年)12月26日、従五位下出羽守に叙任。生来病弱であったが、元禄2年閏正月14日(1689年)、父勝宗の隠居により家督を継いだ。6月28日始めて領地松山に入る。

民政や治水工事、土木工事に尽力し、特に松山川沿岸の堤防は「水谷普請」と呼ばれた。しかしこのような無理と、元々病弱だったことがたたって、元禄6年10月6日(1693年11月3日)に31歳で死去した。法号は隆昌寺殿天山全長大居士。

実子がなく、従兄弟にあたる旗本・水谷勝阜の長男・勝晴を末期養子にしたが、家督相続前の同年11月27日に死去したため、水谷氏は無嗣断絶で改易となった。

備中松山城の召し上げにあたって、赤穂藩主・浅野長矩が城受け取り役となり、1年半後に安藤重博が新城主として入城してくるまでの間、浅野家家老の大石良雄が松山城の管理を行った。城下で浅野・大石主従は酷評されている。

大名としての水谷家の名跡はこれをもって絶えたが、勝美の弟水谷勝時が3000石の旗本として名跡存続を許された。さらにその養子の勝英の代に500石が加増されて3500石の上級旗本となり、この知行のままで明治維新を迎えた。

系譜

  • 父:水谷勝宗(1623-1689)
  • 母:青山幸成の娘
  • 正室:松平頼隆の娘
  • 養子
    • 男子:水谷勝晴(1681-1693) - 水谷勝阜の長男

脚注

  1. ^ 須田茂『徳川大名改易録』(崙書房出版、1998年)211頁
  2. ^ 「備中松山城の受け取りに赴くも、小者に曳かせた馬上にて居眠りして進む」(『翁草』巻百六十七、巻百九十など)
  3. ^ 「大石良雄は足短き醜男で、人々あれが赤穂の家老ぞと云ひて指をさして笑ふ」(『参考義士篇』より「大石内蔵助良雄」)

関連項目

  • 末期養子
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