Miyoka Shibayama
Quick Facts
Biography
芝山 みよか(しばやま みよか、1907年〈明治40年〉8月12日 - 2009年〈平成21年〉6月11日)は、日本の美容家。日本で初めてエステティックサロンを開業した人物とされ、長年にわたる東京都の美容室の経営などで、美顔術やエステティックの普及に努めた。「エステの母」とも呼ばれ、日本美容界の草分け的存在ともいわれる。日本エステティック協会(旧名は日本エステシャン協会)の初代会長。神奈川県横浜市山下町出身、フェリス和英女学校(後のフェリス女学院中学校・高等学校)卒業。出生名は芝山 見与加、結婚後の本名は小守谷 見与加(こもりや みよか)。
経歴
少女期
横浜の山下町で、日本の美顔術の始祖と呼ばれる芝山兼太郎のもとに誕生した。兼太郎は理容所「日之出軒」と美容所を経営しており、みよかは母の早世後、父の店を遊び場代わりとして育った。
美容所は国外の来客のみで、当時のフランス大使夫妻も訪れ、みよかはマニキュアの仕方を教わるなどして可愛がられることも多かった。このような環境において、美容については特別な勉強をすることなく、子供ながら見様見真似で自然に技術を身につけていた。
元街小学校を卒業後、「日之出軒」の顧客であったユージーン・ブースの推薦を受けて、ブースが校長を務めるフェリス和英女学校へ進学した。父の兼太郎は『実用美容術指針 一名学理的化粧法』を出版し、日本全国を回って技術講習会を開催しており、みよかも女学校を卒業後に、父から「旅は出会いと勉強の場」と諭されて、父と共に日本中を回った。北は北海道から南は九州まで、アイヌ部落にまで踏み込み、さらに中国や朝鮮など日本国外へも足を伸ばした。
美容家の道へ
1929年(昭和4年)1月に、文筆家の小守谷達夫と結婚した。みよか自身に美容師になる意志は無かったものの、兄2人が相次いで死去したために家業を継ぎ、同1929年4月に東京府の上野松坂屋に美容所を開設した。
夫は美容の仕事に理解を示しており、「家で培われた技術を継ぐべき」との夫の言葉も後押しとなった。同1929年11月には父の兼太郎も、56歳で急逝した。
その後は夫から経営面での協力を受けつつ、美容業に専念し、松坂屋名古屋店、大阪店、静岡店と、各地に店舗を展開した。当時は和装に洋髪(女性の西洋風の髪形)がお洒落と見なされていたため、当時のファッションリーダーといえる芸妓たちが足しげに店に通い、みよかの店の営業はそうした女性たちに支えられた。美容所の存在が新聞などのメディアに取り上げられることも、次第に多くなった。
戦中
時代が太平洋戦争に突入すると、若い女性たちが女子挺身隊として動員され、みよかの店からも若い客や若い店員が姿を消し始めた。さらに奢侈品等製造販売制限規則(七・七禁令)により、パーマネントウエーブが禁止された。みよかは他の美容家たちと共に、日本パーマネント協会などの団体に呼びかけ「大日本淑髪連盟」を結成し、国民精神総動員や警視庁に嘆願を続けた結果、営業禁止ではなく「華美自粛」を条件として営業を続けることができた。
やがて「兵器の材料」として、鉄製品の提出を求められて、アメリカ製のパーマ用機械や椅子もすべて失った。1ドルが2円50銭の時代に、500ドルを投資しての設備であり、大変な損失となった。
みよかは「せめて髪型くらいは」との客の要望に応えて、木炭を利用したパーマ「淑髪(しゅくはつ)」を考案し、美容院を継続させた。女性たちは配給切符で買った木炭を手に、店を訪れた。
戦中には結婚式を挙げて戦地に赴く兵隊も多く、みよかは「戦時下だからこそ女性を美しく」と奔走した。皮肉にも戦中という非常事態には、純和風の髪の支度は困難であり、軽便な洋髪を生かす機会が多くなっていた。
しかし1944年(昭和19年)には、企業整備令により美容室の閉鎖に至った。みよかは美容器具を手に、お洒落を楽しむ時代の到来を願いつつ、山梨へ疎開した。
戦後
翌1945年(昭和20年)の終戦後、美容業の再開に取り掛かった。「売る物も無いのに美容業の再開は無理」との声もあったものの、同1945年に松坂屋上野店に「シバヤマ美容室」を再開した。「食べ物は無くても、せめて髪ぐらいは綺麗にしたい」と願う女性たちが詰めかけ、昼食をとる暇が無いほどの人気を博した。
戦後間もない時期には、物資や栄養不足、さらにストレスにより女性の肌の衰えが多かったことから、1947年(昭和22年)に松坂屋店内に、皮膚科と併設しての美容室を開設した。1949年(昭和24年)には皮膚科医の協力のもと、銀座に美顔術専門店「銀座美容科」を開設、これが日本のエステティックサロンの始まりとなった。実証に裏打ちされた医学的見地からの美容相談が、話題を呼んだ。当時の粗悪な化粧品で肌を荒らし、みよかの手で回復に至った女性も多かった。
日本国外での美容術の習得
先述のように肌の衰えた女性たちに対する想いから、1951年 (昭和26年)、GHQとの8か月に渡る交渉の末、フランスへ渡航した。フランスでは、化粧品会社創業者であるヘレナ・ルビンスタインに弟子入りを志願し、一度は断られたものの「世界最高水準の美容技術を学びたい」との懇願の末に、特別措置で指導を許された。さらにパリでパブロ・ピカソと会い、ピカソに日本の画家が描いた蘭をモチーフにした風呂敷を見せたところ、「風呂敷は素晴らしいが、なぜ自分の国の花を描かないのか」とのピカソの言葉に衝撃を受け、「日本らしい美しさは何か」を考え始め、西洋の真似を人に与えるだけでなく己(日本)を加えることを学んだ。
帰国後の同1951年秋には、美容雑誌と新聞9社の共同主催という異例の肩入れにより、神田で帰国発表会を打ち上げた。もっとも当時は、全身美容を含むエステに対して理解を得られることは、まだ困難だったという。
翌1952年(昭和27年)にもアメリカとパリへ渡って、美容医学と全身美容を学んだ。同1952年に松坂屋銀座店に本格的エステティックサロン「サロン・ド・ボーテ」を開設し、話題となった。これが「全身美容」の名称が一般化するきっかけにもなった。その後も、日本国外で学んだ技術をもとに、総合的なエステティック技術を提供する店舗を展開させていった。
1961年(昭和36年)には、美顔術と美容術の視察のため、アメリカ、イギリス、フランス、イタリア各国を回る旅に出た。パリではフェルナンド・オーブリーとジャン・デストレに師事し、美容術を学んだ。
美容業の展開 - 晩年
同1961年には、実力と功績が認められて、宣仁親王妃喜久子と宣仁親王妃喜久子の美容係を拝命した。1967年(昭和42年)には、高松宮宣仁親王にカナダ訪問に際して、その妃である宣仁親王妃喜久子の美容および着付け担当者として、宮内庁より随行員を拝命した。
1964年(昭和39年)には、父の創始した美顔術を発展させたエステが、当時は一般女性はおろか美容師にさえ認知度が低かったことから、全身美容の専門技術者養成を目指し、東京の湯島にエステティシャン養成学校「シバヤマ美容研究所」を設立した。美顔術・化粧・全身美容の専門技術者を日本でエステティシャンと呼んだのは、これが最初とされる。
1969年(昭和44年)には男性参入による美容師の地位向上を願い、日本初のユニセックスサロンとして、男性スタッフのみのサロン「コワフュール・シバヤマ」を青山に開業して、話題を呼んだ。
翌1970年(昭和45年)、エステティシャンの国際組織であるCIDESCO(シデスコ)の、オランダでの国際会議にオブザーバーとして参加した。ここで日本支部の設立の許可を得た。2年後の1972年(昭和47年)、CIDESCOの23番目の支部として、日本エステティシャン協会が設立された。エステティシャンの地位確立と技術向上、エステの技術普及を目的とした専門団体は、日本ではこれが最初である。1980年(昭和55年)にはアジア初のCIDESCOの国際会議を主催し、世界各国のエステティシャンとの交流を深めた。また同1980年、エステの民間資格制度への道として、インターナショナル・エステティシャン試験を実施した。
婚礼部門にも尽力し、ヘアデザイン、着付け、エステティックと、総合的な美容を広めた。日本エステティシャン協会の他にも、日本ヘアデザイン協会、日本婚礼美容家協会など、業界団体の設立にも力を注いだ。エステティック業界では「効果が無い」など客の苦情も少なくなかったことに対しては、「原因は技術者の勉強不足」と主張し、1988年(昭和63年)9月にはシドニーで開催されたCIDESCOの国際研究会に、技術者31人と共に参加するなど、技術者の育成にも努めた。
2009年(平成21年)6月11日、老衰のため、家族たちに看取られつつ満101歳で死去した。没後は長男の小守谷巽が日本エステティック協会の理事長を継いだ。墓碑は千葉県野田市の宗英寺にある。
人物
身長163センチメートルの長身であった。父の兼太郎の弟子は少女期のみよかを「背が高く、綺麗なお嬢様で、髪はオールウェーブで、普通の娘さんとは少し違っていた」と語っていた。詩人の田村隆一は、みよかに1985年(昭和60年)に雑誌の対談企画で会い、颯爽としたその容姿、70歳を超えても保っている若々しさに、会うなり「日本のマレーネ・ディートリヒだ」と心の中で叫んだという。
「人間の健康と自然な美しさを大切にすること」「美容術の他、栄養学、体育、精神衛生の領域まで広く関る」を、エステティックの理念としていた。エステティックが日本に導入されるまでは、白粉を塗り込めることが日本女性の美とされていたことから、「女性の美しさは時代と共に変わり、まさに文化のバロメーター。日本のエステは欧米に比べれば20年は遅れている」と指摘していた。美容を通じた女性の意識改革に取り組む姿勢は、父譲りの才華と器量によるものとも言われた。
かな表記の名前「みよか」は、漢字表記の本名「見与加」が「男か女かわからない」との理由で名乗っていた通名である。その生涯は日本の美容の歴史そのものともいえたことから、生前は「みよかの名は『美容家(びようか)』に由来したビジネスネームなのですか?」と聞かれることも多かったという。
受賞歴
- 1980年 (昭和55年) - 国際会議CIDESCO賞
- 1992年(平成4年) - 日本美容文化賞、東京都優秀技能賞、CIDESCO名誉会長賞
著作
脚注
注釈
出典
- ^ 芝山 1963, p. 261.
- ^ 江刺他 2011, pp. 106-107
- ^ 並木 2015, pp. 265-267
- ^ 宇山ミツ男他『ベストエステティック実践ガイド』フレグランスジャーナル、2009年6月23日、6頁。ISBN 978-4-89479-161-9。
- ^ 「芝山みよかさん(美容家、日本エステティック協会名誉会長)死去」『読売新聞』読売新聞社、2009年6月19日、東京朝刊、38面。
- ^ 「芝山みよかさん死去」『中日新聞』中日新聞社、2009年6月19日、朝刊、29面。
- ^ 並木 2015, pp. 260-262
- ^ 「エステ創始者の芝山みよかさんに聞く「自分で朝晩の手入れ」」『日本農業新聞』日本農業新聞社、1992年9月3日。
- ^ “沿革”.日本エステティック協会 (2019年). 2020年3月6日閲覧。
- ^ Shinbiyo 2006, pp. 44-47
- ^ 田村 1989, pp. 30-34
- ^ 谷川泰司「ランドマークが見た100年 教育 芝山美容学校」『読売新聞』、2000年3月5日、東京朝刊、33面。
- ^ 並木 2015, pp. 262-264
- ^ “BRAND STORY”.シバヤマ美容室 (2015年). 2020年3月6日閲覧。
- ^ 「女がゆく 日本エステティシャン協会会長 芝山みよかさん」『産経新聞』産業経済新聞社、1992年9月17日、東京朝刊、24面。
- ^ “GREETING”.シバヤマ美容室 (2015年). 2020年3月6日閲覧。
- ^ 折橋梢恵・光永裕之『新しい美容鍼灸 美痩鍼』フレグランスジャーナル、2012年8月24日、18頁。ISBN 978-4-89479-211-1。
- ^ 並木 2015, pp. 267-269
- ^ shibayama1895のツイート(433788901673545729)
- ^ 「ひと・スポット 海外で美容学勉強 日本エステティシャン協・芝山みよか会長」『読売新聞』、1988年9月6日、東京夕刊、8面。
- ^ 「小守谷巽 元日本エステティック協会理事長が逝去」『理美容ニュース』エイチビイエム、2016年9月20日。2020年3月6日閲覧。