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Hosokawa Toshinaga
Daimyō

Hosokawa Toshinaga

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Biography

細川 利永(ほそかわ としなが)は、肥後熊本新田藩(高瀬藩)の第10代(最後)の藩主。

生涯

文政12年(1829年)1月24日、第8代藩主・細川利愛の三男として生まれる。嘉永6年(1853年)5月に従兄で第9代藩主の利用の養子となり、安政3年(1856年)7月21日に利用が隠居したため跡を継いだ。同年12月に従五位下、若狭守に叙任する。

元治元年(1864年)4月、神田橋御門番、慶応元年(1865年)7月、佃島砲台警備などを務めた。慶応4年(1868年)7月25日、藩名を高瀬と改名する。明治2年(1869年)、同族の宇土藩と共に大原口警護を務めた。明治3年(1870年)9月4日、廃藩となり、その所領は本家熊本藩に合併された。明治17年(1884年)7月8日、子爵に列する。

明治34年(1901年)4月19日に死去した。享年73。

栄典

  • 1901年(明治34年)4月18日 - 従三位

親族

側室の玉島は熊本県士族・宇津忠誠の三女・錫子(1837年生まれ)で、のちに本妻となる。長女・同子(なみこ、1866年生まれ)は子爵・戸田康泰と離婚後、1889年に公卿・園基祥の次男・利文(1865-1944)を婿養子に迎える。利文の妹は明治天皇の側室・園祥子。利文は学習院と東京專門学校に学び、明治天皇の皇女・常宮と周宮の御用掛を経て、御歌所參候を務めた。その長男は細川利寿(1890-1946)、次男・利功(1896年生まれ)は子爵・長岡護美の死跡を相続し、長岡護孝と改名した。

脚注

  1. ^ 『官報』第5335号「叙任及辞令」1901年4月19日。
  2. ^ 細川利文 (男性)『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
  3. ^ 華族細川利永妻宇津錫子之肖像『華族醜聞細川家事件 : 一名・幽斎血の涙. 第2編 』横田甲子三郎 編 (横田甲子三郎, 1894)
  4. ^ 細川利文 (男性)『人事興信録』第8版[昭和3(1928)年7月]
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