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千手喜雲
Commandant

千手喜雲

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Biography

千手 喜雲(永祿4年?1561年?-寬永5年1628年),日本戰國時代、安土桃山時代、江戶時代初期的武將,為筑紫、立花、鍋島家臣。養父為千手權之允元直,生父為青木土佐守,又稱青木六之允久雲,喜雲是他的入道號之名。

生平

出自

千手氏原為九州筑前國、豐前國的小豪族,千手喜雲的先祖為移動到筑後的支流。由於千手喜雲的父親千手元直本身無子,便以嫁給筑後國人青木土佐守的妹妹之子作為養子,即為喜雲,因此他本姓青木。千手元直起初跟隨鄰近的龍造寺氏、筑紫氏等作為支持毛利氏的一員抵抗大友氏,並成為筑紫氏的一門眾,與筑紫氏歸屬龍造寺氏。

早期經歷

天正9年(1581年),在肥前勢力極大的龍造寺隆信用計騙殺筑後領主蒲池鎮漣並奪取筑後以後,千手喜雲身為筑紫廣門派往龍造寺氏的部將,暫時依附當時鎮守柳川城的龍造寺家老鍋島直茂。天正13年(1585年),在歷經「久留米合戰」後,因大友方的主將立花道雪病逝,龍造寺軍得以暫時解除與大友軍對峙的壓力,千手喜雲因此回歸筑紫廣門麾下,並參與攻取大友方將領高橋紹運所領之寶滿城;此時他率3百名兵力假扮為「修驗者」,騙過高橋軍士兵而成功,隨後筑紫廣門決意與高橋紹運和解並結為姻親同盟,共同對抗島津氏。

天正15年(1587年),筑後在歷經大友家的「筑後遠征」、島津家的「九州統一」以及豐臣秀吉的「九州征伐」後,筑前的立花山城城主立花宗茂因功被賜與筑後柳川成為大名。立花家透過家老小野鎮幸與柳川城代龍造寺家晴接收交割印後,筑後領地和平轉移至立花家,此時千手喜雲跟隨轉封至筑後的筑紫廣門,因此成為立花家的與力眾。

改仕鍋島家

之後,千手喜雲率跟隨筑紫廣門參與文祿元年~慶長3年(1592~1598年)由豐臣秀吉發動的「文祿之役」和「慶長之役」。

後於慶長5年(1600年)「關原之戰」時期,立花軍及筑紫軍因攻打大津城而沒能趕上主戰場。在收到西軍戰敗的消息後,立花宗茂先赴大坂要求毛利輝元籠城抗戰,而輝元因已和徳川家談和而拒絕,立花軍只得返回領地柳川;此時已身為肥前佐賀領主的鍋島直茂由西軍轉為東軍來攻,立花宗茂則指派家老小野鎮幸作為總大將率軍於江上八院一地抵抗,做為筑紫家代表的千手喜雲也率隊參戰支援。有觀點認為,千手喜雲受到筑紫廣門的立場影響(廣門以繼承人筑紫主水正茂成為西軍,自己則表態為東軍),在立花軍危急之時未積極出戰,間接造成立花軍的傷亡戰損。

立花家經此役後不久遭改易處分,柳川換田中吉政作為領主,千手喜雲放棄筑後故土,前往肥前仕官鍋島直茂;鍋島直茂對此感到大喜,賜喜雲許可稱「鍋島」姓,並在之後迎入鍋島家臣石井孫四郎之子五郎左衛門正久作為養子,一起改姓鍋島,成為鍋島一門眾之外賜姓鍋島的二十家之一。至承應三年(1654年),由於千手喜雲之孫鍋島時英懼怕僭越鍋島宗家,而將姓氏改回千手姓,繼續在肥前延續家系。

稱號

千手喜雲因為擁有超乎常人的怪力以及精通「角藏流」劍術,有「取草履的角藏」之稱號。由於「角藏流」技法實用,吸引許多年輕人師從喜雲,因此喜雲持續從外地招攬學徒,使肥前的習劍風氣興盛。角藏流是一種除了劍術之外,結合自身格鬥技和柔術之武技,能夠在敵人襲擊自己的時候,第一時間反擊並將敵人制伏在地,肥前的藩士因此將此武技俗稱為「取草履的角藏」,因而成為千手喜雲的異名。

資料來源

  1. ^ 古代中世編年史料页面存档备份,存于互联网档案馆)佐賀の千手正博氏所持と思われる千手氏系図には、千手六之丞(寛永五年(1628)卒、墓佐賀郡多布施村宗智寺(〒8400842佐賀市多布施4-4-3、0952-22-9018))が記される。
  2. ^ 千手權之允
  3. ^ 佐賀千手氏系図. [2022-08-21]. (原始内容存档于2003-04-14). 
  4. ^ 江戸時代の各地の千手氏页面存档备份,存于互联网档案馆)小城千手氏 元和三年(1617) 小城藩初代鍋島元茂が慶長十九年以来四年ぶりに佐賀に帰ったと き、直茂の側臣より分け与えられたものとされる「八十三士一覧表」に、「千手六之允  千手権之允跡目 筑後衆」とある。なお説明として、「これらの家臣の中には元来は筑 後の小豪族であったものが龍造寺隆信の筑後経営後、柳川城にあって前進地経営にあ たっていた鍋島直茂に服属し、鍋島家臣団にはいったものが目立っている」とある。
  5. ^ 古代中世編年史料页面存档备份,存于互联网档案馆)天正十三年(1585) 「秋月種実、筑紫広門は、道雪の死を聞くと、その死の翌日、九月十二日には早くも紹 運の次男統増が守る宝満城を乗っ取ろうとしめし合わせ、筑紫方の千手六之丞を将と して三百人の兵を率い、全員修験姿の扮装で、その夜密かに宝満の嶮を攀じ登り、上 宮に出た」。(「筑前戦国史」p.227) (広門は翌十四年には紹運の子統増(立花直次)との間に婚姻を成立させ、大友方に鞍 替えする。島津氏に付いた秋月種実と袂を分かち、大友方の背後にある秀吉の力にか けたのである(学研「戦国九州軍記」)。
  6. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』页面存档备份,存于互联网档案馆) p.149
  7. ^ 吉永正春『筑前戦国史』宝満城焼き討ち p.210~212
  8. ^ 古代中世編年史料页面存档备份,存于互联网档案馆)天正十三年(1585) 広門は筑後上妻郡一万八千石を安堵される)(学研「戦国九州軍記」)。その後、山下城を経て福島に移り、関が原では立花宗茂とともに西軍について改 易される)。
  9. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)21 小野文書・一六六 「小野和泉・立花吉左衛門・十時源兵衛申分覺」(小野文書312) P.132~133。
  10. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第二十三 柳川久留米山下開城之事 P.618页面存档备份,存于互联网档案馆)、『長編歴史物語戦国武将シリーズ(1)立花宗茂』百五 八の院の戦い P.282
  11. ^ 江戸時代の各地の千手氏页面存档备份,存于互联网档案馆) 千手六之允喜雲 「草履取り角蔵 千手六之允喜雲は、筑後の千手氏で、父は千手権之允という。喜雲に鍋島姓が許されたのは、石井孫四郎の嫡子(千手)五郎左衛門正久を養子に迎えてからである。喜雲と養子正久は、鍋島一門外で鍋島姓を許された二十家の一人である。また正久は中野将監の妹婿になる。承応三年(1654)正久の子で(千手)外記時英の代に、鍋島姓を遠慮して元の千手姓に戻った」(「佐賀の江戸人名志」)
  12. ^ 江戸時代の各地の千手氏页面存档备份,存于互联网档案馆) 千手六之允喜雲 「草履取り角蔵 喜雲は日ごろ草履取り角蔵と称されて、人並み外れた力量の持ち主である。また喜雲には一流の剣術芸があり、これを角蔵流と世間では呼んでいた。実用的な技法で、方々で喜雲に弟子入りする若者が多く、そのため各地に出稽古に招かれるほど繁盛していた。この角蔵流という特技は、自己流の組み討ちに、柔術を組み合わせたもので、敵が不意に襲ってきたとき、即座に相手を張り倒して組み伏せる。藩士の間では、げす流であると蔑まれて、通称草履取り角蔵と呼んでいた。」(「佐賀の江戸人名志」)

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