Yutaka Oyanagi
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Biography
小柳 胖(おやなぎ ゆたか、1911年(明治44年)3月6日 - 1986年(昭和61年)1月4日)は、日本の記者、新聞編集者、実業家。第4代新潟日報社代表取締役社長、會津八一記念館初代館長。
略歴
新潟県新潟市に生まれ、早稲田大学政治経済学部経済学科を卒業後、同盟通信社(現 共同通信社)などを経て、新潟日報社編集局長の時に太平洋戦争に応召し、硫黄島でアメリカ軍の捕虜となると、ハワイの捕虜収容所に送られる。
そこで情報将校ドナルド・キーン海軍中尉と親しくなり、未来の日本について語り合う。
包容力があり、太っ腹で、日本人捕虜の仲間たちから、「おやじ」や「とっつぁん」などと呼ばれていたため、捕虜収容所所長の情報将校オーテス・ケーリ海軍中尉から、幡随院長兵衛の一字を採って「幡さん」と名付けられる。
反戦の日本人捕虜たちと、オーテス・ケーリの対日宣伝活動に協力すると、愛国の日本人捕虜たちから、「親米派」や「売国奴」などと罵声を浴びせ掛けられてデモも行われたため、真珠湾のほとりに設置されたパールシティ収容所に移る。
そこでまとめ役となり、同じく捕虜の朝日新聞社記者の横田正平、同盟通信社記者の高橋義樹、元戦艦大和暗号士の小島清文たちと、日本本土空襲や沖縄戦などの事実を伝える新聞形式のビラ『マリヤナ時報』を作成する。
『マリヤナ時報』はアメリカ陸軍航空軍の大型戦略爆撃機B-29 スーパーフォートレスから戦場や日本全国にまかれる。
1945年(昭和20年)8月14日朝、昭和天皇は木戸幸一内大臣から『マリヤナ時報』号外No. 2117について進言を受けると、鈴木貫太郎内閣総理大臣に会議(御前会議)を開くよう命じ、ポツダム宣言受諾を決断(聖断)する。
太平洋戦争後、新潟日報社に復帰すると、母校の新潟中学校(現 新潟高等学校)の先輩の会津八一と交流し、会津八一の死後、新潟日報社代表取締役社長となると、會津八一記念館の設立運動の中心となって初代館長となる。
1986年(昭和61年)1月4日午後1時45分に新潟大学医学部附属病院で脳梗塞のため死去する。
ほかの元捕虜たちとともにオーテス・ケーリと交流を長く続けたが、捕虜収容所での体験を公表することは死ぬまでなかった。
年譜
- 1928年(昭和03年)03月 - 新潟中学校卒業
- 1930年(昭和05年)03月 - 第二早稲田高等学院修了
- 1933年(昭和08年)03月 - 早稲田大学政治経済学部経済学科卒業
- 1933年(昭和08年)04月 - 日本電報通信社入社・通信部配属
- 1936年(昭和11年)06月 - 同盟通信社入社・政治部配属
- 1938年(昭和13年)01月 - 新潟毎日新聞社副社長
- 1941年(昭和16年)08月 - 新潟日日新聞社常務取締役・編集局長・工務局長
- 1942年(昭和17年)11月 - 新潟日報社取締役・編集局長・工務局長
- 1944年(昭和19年)02月 - 太平洋戦争応召
- 1945年(昭和20年)09月 - 新潟日報社取締役解任
- 1946年(昭和21年)10月 - 復員
- 1946年(昭和21年)11月 - 新潟日報社取締役
- 1947年(昭和22年)01月 - 新潟日報社取締役・編集局長
- 1947年(昭和22年)11月 - 公職追放
- 1950年(昭和25年)11月 - 新潟日報社取締役
- 1953年(昭和28年)06月 - 新潟日報社取締役・編集局長
- 1957年(昭和32年)01月 - 新潟日報社取締役
- 1961年(昭和36年)06月 - 新潟日報社常務取締役
- 1963年(昭和38年)11月 - 新潟日報事業社取締役
- 1965年(昭和40年)11月 - 新潟日報販売取締役
- 1966年(昭和41年)11月 - 新潟デザインセンター取締役
- 1967年(昭和42年)12月 - 新潟日報社代表取締役社長
- 1967年(昭和42年)12月 - 新潟日報事業社社長 - 1971年(昭和46年)12月
- 1972年(昭和47年)02月 - 新潟放送取締役
- 1972年(昭和47年)10月 - 新潟日報旅行社社長 - 1976年(昭和51年)01月
- 1973年(昭和48年)0 00 - 新潟日報サービスセンター社長 - 1974年(昭和49年)
- 1975年(昭和50年)04月 - 會津八一記念館館長
- 1983年(昭和58年)06月 - 新潟放送監査役
- 1984年(昭和59年)01月 - 新潟日報社相談役
栄典
- 1981年(昭和56年)11月3日 - 勲三等旭日中綬章
- 1986年(昭和61年)01月4日 - 従四位
家族・親戚
- 小柳調平 - 父、新潟日報社初代社長。
- 上田碩三 - 義兄、義姉(小柳調平の養子)の夫、第3代日本電報通信社(現 電通)社長。
- 永井行蔵 - 血族、国文学者、新潟大学名誉教授。
脚注
注釈
- ^ 1944年(昭和19年)2月に太平洋戦争に応召して硫黄島へ出征した小柳胖が両親と会うことは二度となかった。
001944年(昭和19年)9月1日に小柳胖の父が死去。
001945年(昭和20年)8月24日に、小柳胖が硫黄島の戦いで3月17日に戦死したとの公報が入り、9月に死去した小柳胖の母との合同葬が9月22日に営まれる。
001946年(昭和21年)10月に小柳胖が日本に帰国。 - ^ 奇しくも小柳胖は新潟日報社の社員たちから、名前の「胖」を音読みして「バンさん」と呼ばれている。
- ^ 小柳胖の風貌については20代から30代の小柳胖の写真を参照。
- ^ 『マリヤナ時報』は日系人たちが作成していたが、日本語の文章や内容の選択などに不自然な点があったため、1945年(昭和20年)6月から、約30人の反戦の日本人捕虜たちが「幡さん」たち3人の記者を中心として作成することになった。
- ^ ポツダム宣言を伝えた『マリヤナ時報』号外No. 2107の見出し「三國共同宣言發表 日本に對し戰爭終結を提議 荒廢か平和か决断の秋(とき)至る」は「幡さん」が付けた。
- ^ 小柳胖は硫黄島で多くの戦友たちや尊敬すべき上官を失っている。
出典
- ^ 東京新聞:新潟との深い縁:ドナルド・キーンの東京下町日記:特集・連載(TOKYO Web) - ドナルド・キーン - 中日新聞東京本社
- ^ 『敬和学園大学 研究紀要』第23号、189頁。
- ^ 『新潟日報二十五年史』78頁。『新潟日報五十年史』53頁。
- ^ 『新潟日報二十五年史』77頁。
- ^ 『新潟日報二十五年史』77頁。『新潟日報五十年史』66頁。
- ^ 2014(平成26)年度│IV 終戦を促した祖国愛 米軍将校と日本兵捕虜|にいがた文化の記憶館 - 新潟日報メディアシップ
- ^ MEDIA SHIP | 新潟日報 メディアシップ ≫ キーンさん講演「新潟と切れないつながり」 - 新潟日報メディアシップ
- ^ 『新潟日報』2013年4月30日付朝刊、1面。『新潟日報』2013年5月4日付朝刊、7面。
- ^ 『新潟日報』2014年6月11日付朝刊、19面。『新潟日報』2014年10月15日付朝刊、31面。
- ^ 『新潟日報』2019年4月17日付朝刊、11面。
- ^ 『日本の若い者』107頁。『真珠湾収容所の捕虜たち 情報将校の見た日本軍と敗戦日本』127-128頁。
- ^ 『新潟日報五十年史』343頁。
- ^ 『新潟日報』1986年1月5日付朝刊、23面。
- ^ 『新潟日報第二代社長「坂口献吉日記」に見る 地方紙と戦争』161頁。
- ^ 『新潟日報』2017年10月14日付朝刊、33面。『新潟日報』2017年11月11日付朝刊、29面。
- ^ 『太平洋の生還者』212-213・222頁。
- ^ 『日本の若い者』128頁。『真珠湾収容所の捕虜たち 情報将校の見た日本軍と敗戦日本』151頁。『太平洋の生還者』224-226頁。
- ^ 『新潟日報』2013年6月15日付朝刊、20面。『新潟日報』2017年10月14日付朝刊、33面。
- ^ 『日本の若い者』125頁。『真珠湾収容所の捕虜たち 情報将校の見た日本軍と敗戦日本』148頁。『太平洋の生還者』226頁。
- ^ 『太平洋の生還者』231頁。
- ^ 『太平洋の生還者』248頁。
- ^ 『対日宣伝ビラが語る 太平洋戦争』228頁。
- ^ 『木戸幸一日記 下巻』1226頁。
- ^ 『昭和天皇独白録 寺崎英成御用掛日記』133頁。
- ^ 『敬和学園大学 研究紀要』第23号、175頁。
- ^ 『昨日の戦地から 米軍日本語将校が見た終戦直後のアジア』301頁。
- ^ 『會津八一 もうひとつの世界 秋艸道人と心をかよわせた文人たち』44頁。
- ^ 『青山同窓会報』第101号、12面。
- ^ 『新潟日報』1986年1月5日付朝刊、1面。
- ^ 『日本の若い者』108頁。『真珠湾収容所の捕虜たち 情報将校の見た日本軍と敗戦日本』128-129頁。『太平洋の生還者』182-183頁。
- ^ 「叙位・叙勲」『官報』号外第97号、1頁、大蔵省印刷局、1981年11月6日。
- ^ 「叙位・叙勲」『官報』第17679号、11頁、大蔵省印刷局、1986年1月20日。
関連文献
- 「原子爆彈完成 ツルーマン大統領發表」『マリヤナ時報』号外No. 2114、パールシティ収容所、1945年8月。
- 「戰爭終る 日本は聯合國側條件を受諾す。」『マリヤナ時報』号外No. 2116、パールシティ収容所、1945年8月。
- 「小柳胖本社取締役戰死」『新潟日報』1945年8月29日付朝刊、2面、新潟日報社、1945年。
- 「第一報「俺は生きてゐる」」『新潟日報』2007年3月23日付朝刊、16-17面、新潟日報社、2007年。
- 「幻に終わった「受け皿」 占領軍ケーリ 創刊に協力」『新潟日報』2017年10月21日付朝刊、33面、新潟日報社、2017年。
- 「本紙の分裂回避へ苦闘 戦争協力問われ幹部追放」『新潟日報』2017年10月28日付朝刊、25面、新潟日報社、2017年。
- 「よみがえる戦地の記憶 捕虜になった記者 小柳元本社社長資料」『新潟日報』2018年5月12日付朝刊、29面、新潟日報社、2018年。
- 「再評価進む教育者オーテス・ケーリ 原点は捕虜との交流」『新潟日報』2018年8月25日付朝刊、29面、新潟日報社、2018年。
- 「田中新総裁に抱負を聞く小柳本社社長」『新潟日報』1972年7月6日付朝刊、1面、新潟日報社、1972年。
- 「ロッキード報道で火花 田中元首相、小柳に一目」『新潟日報』2017年11月18日付朝刊、15面、新潟日報社、2017年。
- 「硫黄島」『新聞研究』第194号、3-4頁、小柳胖[著]、日本新聞協会[編]、日本新聞協会、1967年。
- 「第三十五回クラス会 (PDF) 」『青山同窓会報』第36号、5面、青山同窓会、1983年。
- 『新潟日報事業社五十年史』新潟日報事業社[編]、新潟日報事業社、2000年。