Yoshiharu Wakana
Quick Facts
Biography
若菜 嘉晴(わかな よしはる、1953年12月5日 - )は、福岡県八女郡羽犬塚町(現・筑後市)出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ。現在は野球解説者。
愛称は「ナッパ」。
経歴
柳川商業から1972年、ドラフト4位で西鉄ライオンズに入団。柳川商業から後述の阪神時代までチームメートだった真弓明信とは「ナッパ」、「ジョー」と呼び合うなど、親友として知られる。
入団2年目の1973年、当時の中村長芳オーナーが所有していた米国1A級のローダイ・ライオンズへ野球留学するなど将来を嘱望されるものの、一軍にはなかなか定着できず、6年目の1977年にようやく一軍に定着。この年はプロ野球オールスターゲームに出場するなど正捕手として活躍した。
1979年に田淵幸一・古沢憲司との大型トレードで、真弓・竹之内雅史・竹田和史と共に阪神タイガースへ移籍。移籍1年目のこの年に日本記録となる17個のパスボールを喫したが、そのうちの14個が江本孟紀の投じたエモボールであった。阪神では正捕手として活躍するものの、江本孟紀の阪神退団後から移籍希望を公言し始めた。1982年に女優の白川和子との交際が取り沙汰され、これがきっかけで自由契約となる。
阪神退団後に渡米し、マイナーリーグ(AAA)のタイドウォーター・タイズ(当時ニューヨーク・メッツ傘下)に特命コーチとして加入。1983年シーズン途中に帰国し、横浜大洋ホエールズに入団した。当時の大洋は捕手の高齢化が進んでいたため、若返りを図る意味から獲得に踏み切った。1985年には全試合出場するなど、大洋の正捕手として活躍した。
1987年8月4日の巨人戦では、ホームに返球されてきたボールがバウンドして、うまい具合に若菜の左脇に挟まり、そのまま捕球した体勢でランナー・中畑清とクロスプレーとなり、あたかもタッチしたと見せ掛けたプレーで刺殺を取った。この「若菜の空タッチ」はフジテレビの「プロ野球珍プレー・好プレー大賞」で採り上げられ、「くせ者」若菜を象徴するプレーである。
1988年オフに、公然と球団批判を展開していたという情報があった。翌1989年、無償トレードで日本ハムファイターズへ移籍。日本ハム時代は田村藤夫の控え捕手として、酒井光次郎とのバッテリーで活躍。1991年引退。当時の現役選手としては最後の西鉄ライオンズ在籍経験者であった。
強肩の捕手であったが、阪神時代の1979年には捕逸の年間最多日本記録を達成した(17個)。しかしこの年、ダイヤモンドグラブも受賞している。なお捕逸17回の内14回は江本孟紀とバッテリーを組んだ時であり、スパイ対策のためにノーサインで江本の球を受けたことによるものである。
引退と同時に吉本興業とマネジメント契約し、1992年より1996年まではラジオ関西野球解説者を務めた。
1997年から福岡ダイエーホークスの一軍バッテリーコーチに就任。同時に吉本興業とのマネジメント契約を解消した。コーチ時代は城島健司を二人三脚で育てたことで知られる(詳しくは城島の項目を参照)。1999年には現役時代経験のなかったリーグ優勝・日本一を経験。
2001年、9月30日の対大阪近鉄バファローズ戦で、監督の王貞治のシーズン本塁打記録55本に並んでいたタフィ・ローズに対して敬遠の指示を出し、試合後にそれを自分が独断で行ったことを表明、翌10月1日には日本プロ野球コミッショナーがフェアプレーを求める異例の声明を発表し、さらに翌10月2日にはパ・リーグ会長がこの件でホークスに厳重注意処分とした。この年限りでダイエーを退団。
その後は2007年までTVQ九州放送解説者。2009年からはFBS福岡放送の解説者。また、ソフトバンク球団制作中継(J SPORTS→日テレプラス→FOXスポーツ&エンターテイメント→スポーツライブ+)にも解説を行う。FBSの『めんたいワイド』や『バリはやッ!ZIP!』にもコメンテーターとして出演。2003年よりスポーツニッポン野球評論家(西部本社→現東京本社西部総局)も務めている。
プロ野球マスターズリーグ・福岡ドンタクズに内野手として参加した。日本ハムOBということもあり、2007年より北海道のメディアにも解説者として登場している。
人物
小学校6年生まで習っていた書道では全国大会で入選し、文部大臣賞を受賞している。また、実用英語技能検定1級を所持している。
現役時代
愛称の「ナッパ」の由来は、入団3年目に貧血症のため1ヵ月ほど入院し、退院後、和田博実コーチが彼の青白い顔とやせ細った体を「しょぼくれた菜っぱみたい」と評したから。
入団2年目にローダイ・ライオンズに野球留学したことや、阪神退団後に米国3Aタイドウォーターに所属したことなど、米国滞在経験があるため、英語が比較的堪能である。横浜大洋時代は、その語学力を活かしてレジー・スミスやウォーレン・クロマティ(ともに読売ジャイアンツ)をよく挑発していた。スミスに対しては「顔面スレスレのビーンボールを多用する」→「激怒したスミスが若菜に砂を掛ける」→「その報復としてさらにビーンボールが多用される」といった悪循環もあった。
1980年代後半にはクロマティとのかけひきで有名になり、英語が堪能な若菜とクロマティはバッターボックスで口論になっていた。遠藤一彦がクロマティを三振にとってチェンジになる際、遠藤と若菜は2人で頭を人差し指で指し"頭脳の差"というアピールをし、クロマティの怒りを誘っていた。ただし本当の「犬猿の仲」というわけではなく、OBオールスター戦で若菜とクロマティが同じチームでプレイすることもよくあった。
野村克也からは、「捕手としては気が強すぎる。捕手よりもむしろ投手向きの選手だ」と評されていた。
コーチとして
ダイエーコーチ時代は、なかなか捕手としての技能が向上しない城島を巡って王貞治監督とたびたび衝突した。
就任1年目の1997年のオールスター期間中、王から城島のリードや捕球のまずさを叱責され、王は一塁手か三塁手へのコンバートを示唆した。若菜は反論したが、球団に辞任を申し出た。
若菜は東京の自宅に戻っていた王に電話を入れたところ、電話に出た恭子夫人はあえて王と代わらずに「主人から話は聞いています。お仕事に口を挟むようで申し訳ないのですが、今、あなたと主人との板ばさみになって困るのは城島君ではないでしょうか。お電話のことは主人に私からお伝えしておくので、もう一度考えてみてください」と上手くとりなした。王にも若菜が謝罪していると伝え、これにより両者は和解することができ、城島もコンバートせずに捕手として成長していった。事の真相を若菜が恭子夫人から聞かされたのは、ダイエーが初優勝した1999年のハワイへの優勝旅行の時だったという。
詳細情報
年度別打撃成績
年度 | 球団 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 | 盗塁 | 盗塁死 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 敬遠 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 | 長打率 | OPS |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1974 | 太平洋クラウン | 6 | 5 | 5 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 |
1975 | 12 | 4 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
1976 | 39 | 79 | 71 | 6 | 17 | 1 | 0 | 1 | 21 | 5 | 1 | 1 | 1 | 0 | 6 | 0 | 1 | 9 | 3 | .239 | .308 | .296 | .604 | |
1977 | 103 | 340 | 318 | 29 | 93 | 10 | 1 | 4 | 117 | 29 | 1 | 8 | 6 | 1 | 10 | 0 | 5 | 29 | 7 | .292 | .323 | .368 | .691 | |
1978 | 108 | 288 | 267 | 25 | 57 | 5 | 0 | 4 | 74 | 21 | 1 | 5 | 4 | 6 | 9 | 0 | 2 | 46 | 14 | .213 | .239 | .277 | .516 | |
1979 | 阪神 | 112 | 422 | 386 | 38 | 117 | 10 | 1 | 9 | 156 | 42 | 8 | 5 | 1 | 3 | 32 | 8 | 0 | 37 | 10 | .303 | .354 | .404 | .758 |
1980 | 126 | 481 | 441 | 34 | 113 | 12 | 2 | 4 | 141 | 32 | 2 | 4 | 12 | 1 | 26 | 5 | 1 | 42 | 21 | .256 | .299 | .320 | .619 | |
1981 | 115 | 403 | 360 | 24 | 101 | 13 | 2 | 3 | 127 | 32 | 4 | 2 | 15 | 1 | 27 | 20 | 0 | 23 | 12 | .281 | .330 | .353 | .683 | |
1982 | 73 | 229 | 211 | 14 | 45 | 5 | 1 | 3 | 61 | 21 | 3 | 1 | 3 | 2 | 12 | 2 | 1 | 24 | 6 | .213 | .257 | .289 | .546 | |
1983 | 大洋 | 28 | 71 | 60 | 5 | 21 | 8 | 0 | 0 | 29 | 2 | 0 | 0 | 2 | 0 | 9 | 3 | 0 | 6 | 1 | .350 | .435 | .483 | .918 |
1984 | 99 | 306 | 292 | 26 | 79 | 6 | 0 | 8 | 109 | 25 | 2 | 2 | 2 | 2 | 9 | 1 | 1 | 45 | 13 | .271 | .293 | .373 | .666 | |
1985 | 130 | 434 | 403 | 28 | 108 | 9 | 2 | 7 | 142 | 44 | 1 | 2 | 11 | 3 | 16 | 7 | 1 | 34 | 20 | .268 | .296 | .352 | .648 | |
1986 | 122 | 404 | 372 | 29 | 107 | 14 | 1 | 4 | 135 | 29 | 3 | 5 | 8 | 1 | 22 | 13 | 1 | 41 | 10 | .288 | .328 | .363 | .691 | |
1987 | 81 | 255 | 229 | 23 | 69 | 12 | 1 | 4 | 95 | 27 | 1 | 0 | 5 | 1 | 20 | 10 | 0 | 23 | 9 | .301 | .356 | .415 | .771 | |
1988 | 74 | 173 | 156 | 13 | 37 | 5 | 1 | 1 | 47 | 8 | 0 | 0 | 1 | 0 | 16 | 8 | 0 | 12 | 5 | .237 | .308 | .301 | .609 | |
1989 | 日本ハム | 55 | 90 | 84 | 6 | 21 | 2 | 3 | 1 | 32 | 9 | 0 | 2 | 2 | 0 | 3 | 0 | 1 | 7 | 3 | .250 | .284 | .381 | .665 |
1990 | 63 | 147 | 138 | 6 | 33 | 4 | 1 | 1 | 42 | 11 | 0 | 1 | 0 | 0 | 7 | 0 | 2 | 16 | 3 | .239 | .286 | .304 | .590 | |
1991 | 41 | 84 | 81 | 0 | 19 | 1 | 0 | 0 | 20 | 3 | 0 | 0 | 2 | 0 | 1 | 0 | 0 | 5 | 0 | .235 | .244 | .247 | .491 | |
通算:18年 | 1387 | 4215 | 3878 | 308 | 1037 | 117 | 16 | 54 | 1348 | 340 | 27 | 39 | 75 | 21 | 225 | 77 | 16 | 399 | 137 | .267 | .309 | .348 | .657 |
- 各年度の太字はリーグ最高
- 太平洋(太平洋クラブライオンズ)は、1977年にクラウン(クラウンライターライオンズ)に球団名を変更
表彰
- ダイヤモンドグラブ賞:1回 (1979年)
記録
- 初記録
- 初出場:1974年4月10日、対南海ホークス1回戦(大阪スタヂアム)、7回裏に捕手として出場
- 初安打・初打点:1976年4月17日、対ロッテオリオンズ前期4回戦(宮城球場)、8回表に倉持明から
- 初先発出場:1976年4月25日、対近鉄バファローズ前期6回戦(平和台球場)、8番・捕手として先発出場
- 初本塁打:1976年8月1日、対南海ホークス後期3回戦(平和台球場)、8回裏に佐々木宏一郎からソロ
- 節目の記録
- 1000試合出場:1986年6月15日、対読売ジャイアンツ11回戦(後楽園球場)、8番・捕手として先発出場 ※史上265人目
- 1000本安打:1990年7月22日、対西武ライオンズ17回戦(西武ライオンズ球場)、2回表に石井丈裕から左前安打
- その他の記録
- 年間最多捕逸:1979年=17個 ※1960年の野村克也とタイ記録
- 1試合5三振:1979年5月29日、対横浜大洋ホエールズ6回戦(宮城球場) ※史上初
- オールスターゲーム出場:5回(1977年、1979年 - 1982年、1985年)- 山内一弘に続いて史上2人目のセ・パ両リーグ本塁打を記録している。
背番号
- 44 (1972年)
- 39 (1974年 - 1982年)
- 9 (1983年 - 1986年)
- 22 (1987年 - 1988年)
- 99 (1989年 - 1991年)
- 84 (1997年 - 2001年)
関連情報
出演番組
現在
- バリはやッ!ZIP!(福岡放送) - 火曜日コメンテーター
- めんたいワイド(福岡放送) -水曜日コメンテーター
- 夢空間スポーツ(福岡放送)
- HAWKS プロ野球中継(スポーツライブ+) - 解説
- DRAMATIC BASEBALL(福岡放送制作、ソフトバンクが関与するビジターゲームでは読売テレビ・広島テレビ等系列局制作の中継にも出演する場合がある) - 解説
過去
- ナイトシャッフル(福岡放送、イレギュラー出演)
- VIVA!SPORTAS(TVQ九州放送)
- もう夜なのか(KBCラジオ、ナイターオフシーズン)
- ブギウギラジオ(KBCラジオ、イレギュラー出演)
- J SPORTS STADIUM(J SPORTS、ナイターシーズン)
- STVラジオ ファイターズスタジアム(STVラジオ)
- 地元福岡では福岡のラジオ局とは契約していないが、KBCホークスナイターのホークス戦中継をSTVラジオ制作時の際の解説の時だけ地元福岡でラジオの解説を聴くことができるという異例の形になっている。
- これは、2013年までテレビ新広島と契約していた達川光男が、RCCカープナイターでニッポン放送制作または同局の協力によるRCCラジオの乗り込み自社制作の広島戦ビジターゲーム・広島戦以外の全国中継(MBSラジオ制作の阪神戦を含む)の解説の時だけラジオの解説を聞くことができたのも同様のケースである。なお、達川の場合、2016年はテレビ新広島への出演が本数契約扱いだったため(達川の中日コーチ在任中に、テレビ新広島は山内泰幸を専属解説者としていた)、NHK広島放送局やRCCラジオのホームゲームの中継にも出演していた。
- 地元福岡では福岡のラジオ局とは契約していないが、KBCホークスナイターのホークス戦中継をSTVラジオ制作時の際の解説の時だけ地元福岡でラジオの解説を聴くことができるという異例の形になっている。
著書
- プロ野球が危ない-絶叫メッタ斬り!!(学習研究社、1992年4月)
脚注
- ^ [主婦の友社編集、読む野球−9回勝負−No.7_82頁]
- ^ 週刊ベースボール別冊PART5 1989年編(2020年3月31日刊)68頁
- ^ 『プロ野球「最強捕手」伝説』(洋泉社、2009年)p.88
- ^ 日刊ゲンダイ 2013年11月9日発行号
- ^ 【根本陸夫伝】主力を放出してまで田淵幸一の獲得にこだわった男 2015.09.02、スポーツナビ
- ^ ベースボールマガジン社刊「日本プロ野球事件史1934-2013」104ページ
- ^ 『ベースボールアルバムNo.15 若菜嘉晴』(恒文社、1980年)
- ^ 斉藤直隆著『プロ野球 最後のサムライ』(コアマガジン、2005年)ISBN 9784877348199
関連項目
- 福岡県出身の人物一覧
- 埼玉西武ライオンズの選手一覧
- 阪神タイガースの選手一覧
- 横浜DeNAベイスターズの選手一覧
- 北海道日本ハムファイターズの選手一覧
- 日本人のマイナーリーグ選手一覧