peoplepill id: yonezo-tabuchi
YT
Japan
2 views today
2 views this week
Yonezō Tabuchi
Japanese go player

Yonezō Tabuchi

The basics

Quick Facts

Intro
Japanese go player
Places
Work field
Gender
Male
Birth
Place of birth
Hyōgo Prefecture, Japan
Death
Age
46 years
The details (from wikipedia)

Biography

田淵米蔵(たぶち よねぞう、1871年(明治4年) - 1917年(大正6年)11月23日)は、明治時代の囲碁棋士で、家元井上家の十五世井上因碩。兵庫県生れ、泉秀節、十四世井上因碩門下、七段。井上田淵因碩と呼ばれる。関西が拠点であったが、家名のためにしばしば東京で研鑽した。

経歴

西宮市に生まれる。字は玉粒。幼時に大阪で刀圭(医者)を営む田淵家の養子となるが、9歳の時に養父を亡くし、中学に通いながら泊園書院に学ぶ。その頃に囲碁を覚えて碁席に通うようになり、14歳で中学を退学し、泉秀節に教えを受ける。秀節は入門を勧めるが、米蔵は独学で16歳の時に初段となり、鬼童と呼ばれた。

その後19歳までの間、親戚から囲碁を禁止されるが、19歳の時に大塚亀太郎(十四世井上因碩)に入門。1901年(明治34年)に四段を許される。関西各地を遊歴し、翌1902年に五段となり、逗留していた四日市市に師の因碩を招いて披露会を行った。1904年に因碩が没すると、1906年に井上門下から高崎泰策に十五世相続を打診するが、高崎は高齢をもって辞退する代わりに米蔵を推し、翌1907年(明治40年)に米蔵が井上家十五世を継ぎ、大阪にて披露会を行った。

その後は神戸に定住するが、たびたび東上して研鑽する。京都の田村嘉平の五段披露会にて、広瀬平治郎に互先2局を連敗。1909年、本因坊秀哉が来阪し、米蔵は先二で4連勝、定先1局も勝ちとする。同年一旦四日市に戻った後、勉学のため東上、新聞棋戦にも出場した。翌年神戸に戻り、1912年(明治45年)に井上家、関西囲碁会の推薦で六段昇段。神戸での披露会には、秀哉、中川亀三郎が出席。1916年(大正5年)、井上家、秀哉、中川らの推薦で七段昇段、大阪市で披露会を催し盛況となった。翌年に急性肺炎により死去。井上家は大塚、田淵の門人の恵下田栄芳が1919年に独断襲名した。

独学で学んだところが多いことから、常套に添わず、また敏捷であるが、見損じも多いと言われた、秀哉とは1909年から11年にかけて東京日日新聞主催で十番碁があり、2勝7敗1打ち掛け。

The contents of this page are sourced from Wikipedia article. The contents are available under the CC BY-SA 4.0 license.
Lists
Yonezō Tabuchi is in following lists
comments so far.
Comments
From our partners
Sponsored
Yonezō Tabuchi
arrow-left arrow-right instagram whatsapp myspace quora soundcloud spotify tumblr vk website youtube pandora tunein iheart itunes