Yoji Nagatomo
Quick Facts
Biography
永友 洋司(ながとも ようじ、1971年3月14日 - )は 日本の元ラグビー選手、ラグビー指導者。1990年代に、日本代表や社会人ラグビーで活躍した名選手である。
プロフィール
- 宮崎県都農町出身。
- ポジションはスクラムハーフ。
- 日本代表キャップは8。
略歴
ラグビーを始めたのは遅く、都城高校に入ってからである。兄がラグビーをやっていた影響で、1985年の日本代表vsフランス代表とのテストマッチ(この年、日本ラグビー協会はフランスへ2試合の遠征を行った。)を見て、同じ宮崎県出身の小西義光が活躍しているのに触発されたのが、ラグビーを始めたきっかけだった。高校入学後はめきめきと実力を発揮し、1987年全国高校ラグビー選手権ではベスト4まで進出する原動力となった(準決勝でも強豪・秋田工に3-8と大健闘した)。この活躍が認められ、在学中にラグビー高校日本代表に選出された。
都城高校卒業後の1989年に、明治大学に進学。1年次から正SHとして出場し、明治大学ラグビー部では関東大学ラグビーリーグ戦3連覇(1990年 - 1992年)、大学選手権連覇(1990年 - 1991年)に貢献。4年次(1992年)には主将も務めた。同じSHだった早大の堀越正巳(のち神戸製鋼〈現・神戸製鋼コベルコスティーラーズ〉)とは早明戦でのライバルでもあり、現在も親交がある。大学在学中にも各年代の日本代表(Under23代表、学生日本代表、日本A代表)に選出された。
明大卒業後は、サントリーに入社。これも小西への憧憬の念があったからである。入社1年目の1993年に、エディンバラ(スコットランド)で開催された第1回ラグビーワールドカップセブンズ日本代表に選出された。サントリー(現・サントリーサンゴリアス)でもSHのレギュラーを獲得。清宮克幸の後を継いで1995年から4年間、第8代目主将を務めた。最大のハイライトは、第48回全国社会人ラグビーフットボール大会(1996年)で、神戸製鋼の連覇を阻んだ事である。当時、新日本製鐵釜石(現・釜石シーウェイブス)と並ぶ7連覇を達成した神戸製鋼だが、折からの阪神・淡路大震災で練習グラウンド(灘浜グラウンド〈神戸市東灘区〉)が被災した事により、例年に比べてチーム力は落ちていると見られていた。1996年1月28日に行われた決勝トーナメント1回戦、17-20でリードされていた終了間際にペナルティゴール(PG)を決め、20-20の同点に持ち込んだのである。トライ数の差(サントリー3、神戸製鋼2)により、サントリーが準決勝進出した。この瞬間に神戸製鋼の8連覇の夢は潰えた。同大会準決勝では、東芝府中(現・東芝ブレイブルーパス)に51-14で圧勝し、いよいよ迎えた2月11日の決勝・三洋電機(現・パナソニック ワイルドナイツ)戦。この試合は序盤、三洋電機に主導権を握られるが、20-27で迎えた終了間際のトライにより2点差とし、その後のコンバージョンゴールを永友が決め、27-27で試合終了。そしてまたもトライ数の差(サントリー4、三洋電機3)により、遂にサントリーの全国社会人ラグビーフットボール大会初優勝を成し遂げた。同年の日本選手権でも母校の明大に49-24で圧勝し、同大会初優勝。以後、サントリー在籍中に3度の全国社会人ラグビーフットボール大会優勝、日本ラグビーフットボール選手権大会優勝を達成し、サントリーの黄金時代を築いた。社会人在籍中にも、日本代表に選出されており、キャップ数は8となっている。サントリー一筋9年、2002年をもって現役引退した。
翌2003年より指導者の道に転じ、2006年までサントリーサンゴリアス監督を務めた。その後、仙台ラグビースクール(仙台市太白区)コーチ、日本A代表アシスタントコーチを経て、2012年より2017年1月までキヤノンイーグルス監督を務める。2017年3月、日本ラグビー協会の15人制日本代表強化部長兼強化副委員長に就任。2017年9月キャノンイーグルスのGMに就任。また東日本大震災復興プロジェクト「スポーツこころのプロジェクト」の夢先生にも登録し、ラグビーの啓蒙活動も行っている。
ラグビーを始める前はサッカーをやっていた事もあり、キック力や正確さに定評があった。全国社会人ラグビーフットボール大会での2度の同点劇に見られるように、ここ一番での精神力も強かったと伝わっている。
脚注
関連項目
- 都城高等学校
- 明治大学ラグビー部
- サントリーサンゴリアス
- キヤノンイーグルス
- 清水秀司 - 明治大学時代の同級生。
外部リンク
- 監督 永友 洋司〈スタッフ(ST) - キヤノン イーグルス〉
- 永友 洋司 - 夢先生の紹介スポーツこころのプロジェクト