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Japan
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Toshiyuki Okamoto
Japanese baseball player

Toshiyuki Okamoto

The basics

Quick Facts

Intro
Japanese baseball player
Places
Work field
Gender
Male
Place of birth
Yonago, Japan
Age
53 years
Stats
Height:
173 cm
Weight:
68 kg
Education
Kansai University
Sports Teams
Shochiku Robins
The details (from wikipedia)

Biography

岡本 利之(おかもと としゆき、1916年11月27日 - 1969年12月30日)は、鳥取県米子市出身のプロ野球選手、高校野球・社会人野球監督。右投右打で、ポジションは捕手、内野手、投手。

父は米子中学校野球部長を務めた岡本速水。

来歴・人物

米子中では4年次の1932年に、夏の甲子園に二塁手として出場した(初戦で石川師範に敗れる)。翌1933年は主将・主戦として活躍したが、山陰大会1回戦で敗れ、甲子園出場を逃した。

卒業後は関西大学に進学し、野球部で好打、堅守の内野手として名を馳せた。1939年には職業野球・ライオン軍に入団。弱小チームでユーティリティープレイヤーとして捕手をはじめ、さまざまなポジションをこなした。1年プレー後応召した。

戦後、戦争で痛めた左足が完治しないまま、米子中で後輩の指導にあたっていたが、1947年、創部間もない境中学校野球部後援会幹部の強い要請を受け、同校の監督に就くと、3年間で2度、夏の甲子園地区予選決勝まで駒を進めるなど、同校の礎を築いた。 1950年には母校・米子東高校監督を務め、夏の甲子園でベスト8に導く。その後請われてノンプロの野球部があった米子鉄道管理局(現・JR西日本米子支社)に就職し、采配を振った。

1958年夏の大会後、大橋棣、木下勇、浜田圭司(のち鳥取県高野連審判委員長)の後を受け、米子東監督に復帰。1960年の選抜に出場すると、宮本洋二郎の力投などで山陰勢初となる決勝進出を果たし、高松商の山口富士雄にサヨナラ本塁打を浴びて敗れたものの、準優勝に輝いた。同年夏にも出場を果たすと、活躍が認められ秋の熊本国体にも出場し、再び準優勝。1961年にも選抜に出場、再び高松商の前に屈したが、ベスト4に導いている。その後1965年の選抜、66年の選抜にも出場、66年には高知に勝利し「打倒・四国勢」の念願を果たすベスト8進出。その後1968年夏の大会限りで監督を勇退した。

翌1969年、胃の不調を訴え入院。「もう一度米子東のプレーを見たい」という願いを叶えられないまま、53歳で死去した。

米子東高野球部逍遥歌の作詞も手がけている。

詳細情報

年度別投手成績

年度球団登板先発完投完封無四球勝利敗戦セ丨ブホ丨ルド勝率打者投球回被安打被本塁打与四球敬遠与死球奪三振暴投ボ丨ク失点自責点防御率WHIP
1939ライオン10630026----.25022948.254130--0230035274.961.73
通算:1年10630026----.25022948.254130--0230035274.961.73

年度別打撃成績

年度球団試合打席打数得点安打二塁打三塁打本塁打塁打打点盗塁盗塁死犠打犠飛四球敬遠死球三振併殺打打率出塁率長打率OPS
1939ライオン75289247195042058286--2435--120--.202.304.235.539
通算:1年75289247195042058286--2435--120--.202.304.235.539

背番号

  • 3 (1939年)

高校野球監督としての全国大会成績

  • 通算成績8勝5敗
年度出場回数全国大会成績対戦校備考
1960年(第32回選抜)25年ぶり2回目準優勝2-1 大宮(埼玉)
4-2 松阪商(三重)
2-0 秋田商(秋田)
1-2 高松商(香川)
米子東投手は宮本洋二郎。
現在のところ、山陰勢唯一の決勝進出である。
1960年(第42回選手権)4年ぶり9回目2回戦敗退8-0 盈進商(広島)
5-12 徳島商(徳島)
米子東(米子中時代含む)2度目の春夏連続出場
1961年 (第33回選抜)2年連続3回目ベスト42-1 掛川西(静岡)
2-1 敦賀(福井) 延長16回
1-4 高松商(香川)
敦賀戦で矢滝伸高投手が23奪三振の大会記録(延長16回参考)
1965年(第37回選抜)4年ぶり4回目2回戦敗退0-4 高松商(香川県)高松商に3度目の苦杯を喫する。
1966年(第38回選抜)2年連続5回目ベスト86-1 富士宮北(静岡)
2-0 高知(高知)
2-11 中京商(愛知)

エピソード

  • グラウンドでは常に厳しく、木下勇監督とは対照的なスパルタ式で選手を鍛え上げた。個人ノックの嵐に、選手たちは「次に自分が指名されたらと思うと寒気がした」と振り返るほどであった。しかしグラウンド外では選手をすき焼きに誘うなど、意思疎通を大事にした。
  • 相手ベンチのサインを見てスクイズを外すなど、優れた勝負勘をもっていた。「実力と品位の野球」をめざして鍛えた米東野球は、"さわやか野球"と絶賛された。
  • 試合においては「審判のどんな判定にも潔く従う」を信条としていた。しかし、生涯最後の試合となる1968年夏の鳥取西戦で、同点で迎えた試合終盤の鳥取西走者の生還を認めたクロスプレーの判定に対し、米子東捕手のタッチが早いと見て取った岡本は、判定に対して猛抗議を行った。判定は覆ることなく、結局これが決勝点となって米子東は敗れた。岡本は死の床でも「たった一球の判定で選手の一生が変わることもある。審判の判定はそれだけ重いんだ」と、この時の判定を気にしていたという。

  1. ^ 1983年7月の朝日新聞鳥取版「熱球の記憶・信条に背く時」より

関連項目

  • 鳥取県出身の人物一覧
  • 関西大学の人物一覧
  • 松竹ロビンスの選手一覧
The contents of this page are sourced from Wikipedia article. The contents are available under the CC BY-SA 4.0 license.
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