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Tokuji Kawasaki
Japanese baseball player

Tokuji Kawasaki

The basics

Quick Facts

Intro
Japanese baseball player
Places
Work field
Gender
Male
Age
85 years
The details (from wikipedia)

Biography

川崎 徳次(かわさき とくじ、1921年5月7日 - 2006年4月25日)は、プロ野球選手(投手、外野手)・監督。

来歴・人物

龍谷中学に入学し、1年生の終わりに陸軍幼年学校を受験するが痔疾により不合格となり、久留米商業学校に入学しなおす。最上級生の5年生の時には主将・エースを務め、夏の甲子園の福岡県予選ではベスト8まで進出する。

卒業時には、大学では早稲田大学と立教大学から、職業野球では阪急とセネタースからそれぞれ勧誘を受けるが、久留米商業の先輩がいた満州の撫順炭鉱に入社する。1940年の第14回都市対抗野球大会では満鉄倶楽部の投手として出場。予選では元大阪タイガースの西村幸生を擁する新京電電を破って満州代表となり、本戦では大会2連覇中で優勝候補であった藤倉電線を1回戦で破ったことから注目され、同年のシーズン途中に南海に投手として入団。日本大学夜間部にも在籍していた。

1941年46試合に登板して12勝、1942年はシーズン途中で盲腸炎のためシーズン途中でリタイヤするも41試合で15勝と、南海では神田武夫に次ぐ主戦投手として活躍し、1941年の東西対抗戦に西軍の投手として出場した。この頃が川崎の現役時代で最も球速があった時期で、鈴木惣太郎から球界で一番速いと賞賛されている。1942年に応召して、ビルマのマンダレーで終戦を迎え、戦後は強制収容所での拘留生活を送った。

1946年10月に監督の中島治康の勧誘もあり読売ジャイアンツに入団してプロ野球界に復帰。同年は1試合のみの登板だったが、セネタースの大下弘にプロ野球新記録の1シーズン20本目の本塁打を献上している。1947年からはオーバースローからスリークォーターに投法を変えたことで、シュートの切れ味が増してシンカー気味の落ちる球となり、打者をことごとく内野ゴロに仕留め、チームの勝ち頭となる24勝を挙げる。1948年も27勝、防御率2.31(リーグ7位)を記録し、同僚の中尾碩志とともに最多勝利のタイトルを分け合った。1948年5月29日の対中日ドラゴンズ戦(宇治山田球場)では、1点リードの9回無死1塁の場面でリリーフ登板したが、最初の打者である杉山悟に初球を逆転サヨナラ本塁打され、プロ野球史上初の「1球敗戦投手」になっている。

1949年も藤本英雄(24勝)に次ぐ19勝を挙げ、巨人の戦後初優勝に貢献した。同年4月26日に金沢兼六園球場で行われた対大映スターズ戦では、8被本塁打で13失点しながら、自らも3本塁打含む4安打9打点で完投勝利を収めた。この試合で記録した3本塁打は投手として史上初。しかも、川崎はこの試合まで1本も本塁打を打ったことがなかった。9打点は当時のプロ野球新記録であり、川崎は自ら取られた点を、自らのバットで取り戻したことになる。完投勝利投手の失点13、1試合の被本塁打8本はいずれも未だに破られていない日本記録である。また、同年の暮れにサンフランシスコ・シールズが来日し戦後初の日米野球が行われたが、その第1戦に皇太子明仁親王やマッカーサー元帥夫人らが観戦する中、巨人の先発として登板する。しかし、川崎の投球はマイナーリーグのチームにも歯が立たず、1死も取れずに降板してしまった。

1950年2リーグ分裂に伴って、郷土福岡に創設された西鉄クリッパース(後の西鉄ライオンズ)に請われて移籍する。この移籍は円満に推移し、西鉄がエースの譲渡に関する巨人への感謝広告を全国紙に出すほどであった。しかし、移籍に関連してシーズンオフに十分なトレーニングができないまま、3月20日の初登板でシュートを投じたところ肘を痛める。肘の故障により、シュートが思うように投げられなくなったため、1950年12勝、1951年12勝、1952年13勝と15勝の壁を破れない時期が続く。しかし、西鉄移籍後は主将を務め、1951年には三原脩の監督招聘を提案し、川崎自身が三原への使者役も務めた。

1953年は肘が回復するとともに、新たにナックルボールをマスターして緩急の差で打者を封じ、24勝15敗、防御率1.98で最多勝利と最優秀防御率の2冠を獲得し最優秀投手に選ばれた。1954年は一過性肺浸潤を患って10勝に留まるが、同年の日本シリーズでは日本シリーズ初先発で無四球完封勝利を飾っている。1955年は17勝を挙げ6年連続二桁勝利を達成した。

1956年になると監督の三原脩は若手投手を積極的に起用するようになり、島原幸雄・稲尾和久・西村貞朗の20歳前後の投手3人が20勝を記録する傍らで、川崎の登板機会は減り2勝に終わる。1957年に現役を引退。

引退後は投手コーチや助監督を務め、三原脩監督時代の西鉄黄金時代を支えた。三原退団後の1960年から2年間は西鉄の監督を務めて2年連続Aクラスを守るが、中西太を初めとして故障者が続出した事もあって優勝はできなかった。西鉄本社は川崎のチーム掌握術への批判もあいまって解任され、後任監督には選手兼任で中西が就任した。1962年からはフロント入りし、球団常務として辣腕を振るった。1967年には阪神タイガースの一軍投手コーチを務め、当時新人投手だった江夏豊のピッチングの原型を作ったと言われている。

その後、東京駅の八重洲地下街で博多うどん屋を経営。1979年からは郷里の鳥栖市で喫茶店を経営していた。

2006年4月25日胆管癌のため福岡県久留米市の病院で死去。享年86(満84歳没)。

選手としての特徴

ピッチングのテンポが速く、快速球とシュートを得意としたほか、ナックルボールも持ち球としていた。

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1940南海11720014----.20020548.038025--0240024163.001.31
1941463013401216----.4291103267.21907144--21211086692.321.25
1942413716401517----.4691076259.22004134--31120184672.321.29
1946巨人1000000--------256.1213--0200222.570.79
19475138321022416----.6001421357.22559118--712900101852.141.04
19484739251222715----.6431282318.12577113--58200101822.311.16
194936261630199----.679976232.12262469--6108011161013.901.27
1950西鉄402216111215----.444961231.02062574--311510116883.431.21
19513615611129----.571636159.2142828--3601056412.311.06
1952412212401311----.542877216.0171962--4901086662.751.08
1953472318512415----.6151167294.1238978--31100086651.981.07
195430156111010----.500643158.1136647--3681051422.381.16
195543228321715----.531876217.219565051881066582.391.13
195628721023----.40035085.08142712320026222.331.27
19577000001----.0007518.1151800700431.421.25
通算:15年5053031724910188156----.547116732870.1235212098064211486210058072.531.16
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別打撃成績

















































O
P
S
1940南海11191611000100--201--00--.063.118.063.180
194147113998152101940--5--9--010--.152.222.192.414
194248121108515010175101--12--09--.139.225.157.382
1946巨人1220000000000--0--00--.000.000.000.000
194763159142827420358111--16--014--.190.272.246.519
1948571401321033710425202--6--09--.250.283.318.601
1949531099415263033820115--10--08--.277.346.404.750
1950西鉄6913311715344145219122--13--164.291.366.444.811
1951561151041013110167113--8--094.125.188.154.341
19524391741019301257008--9--041.257.337.338.675
195357125106921421324019--10--0250.198.267.302.569
195432646071950127600202--0112.317.339.450.789
195557104956162102080020601131.168.225.211.436
19564246412900094101040040.220.289.220.508
19571314130300031000010030.231.286.231.516
通算:15年6491355120310625135101033698864301070212512.209.274.279.554

通算監督成績

  • 276試合 151勝 116敗 9分 勝率.566

タイトル

  • 最多勝利:2回 (1948年、1953年)
  • 最優秀防御率:1回 (1953年)

表彰

  • 最優秀投手:1回 (1953年)
  • ベストナイン:1回 (1953年)

記録

  • オールスターゲーム出場:3回 (1951年 - 1953年)
  • 1949年4月26日対大映戦に関する記録、いずれも達成当時のもの

背番号

  • 21 (1940年 - 1942年、1947年 - 1958年)
  • 26 (1946年)
  • 55 (1959年)
  • 30 (1960年 - 1961年)
  • 56 (1967年)

    脚注

    参考文献

    • 川崎徳次『戦争と野球 兵隊にされたプロ野球選手』ベースボールマガジン社、1997年
    • 澤宮優『後楽園球場のサムライたち』現代書館、2006年

    関連項目

    • 佐賀県出身の人物一覧
    • 福岡ソフトバンクホークスの選手一覧
    • 読売ジャイアンツの選手一覧
    • 埼玉西武ライオンズの選手一覧
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