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Tetsugorō Obara
Japanese businessperson

Tetsugorō Obara

The basics

Quick Facts

Intro
Japanese businessperson
Places
Work field
Gender
Male
Place of birth
Tokyo, Japan
Age
89 years
The details (from wikipedia)

Biography

小原 鐵五郎(おばら てつごろう、1899年(明治32年)10月28日 - 1989年(平成元年)1月27日)は日本の信用金庫経営者。城南信用金庫の第3代理事長・会長であり、全国信用金庫連合会(現:信金中央金庫)会長や全国信用金庫協会会長の両会長職も永年にわたって務める。歯に衣着せぬ直言で金融界のご意見番といわれる。政官財にも強い影響力を持っていた。

また信金業界の業界団体のトップとして長きにわたってリーダーシップを発揮し、信用金庫の発展に努め、信金業界において多大な功績を残した。その実績から「信用金庫の神様」とも呼ばれている。勲等は勲二等瑞宝章及び従三位勲一等瑞宝章。

来歴・人物

明治32年(1899年)10月28日、東京府荏原郡大崎村字居木橋(現:東京都品川区大崎3丁目)に小原兼治郎・りんの五子として生まれる。家業の農業に従事。第一日野尋常小学校卒。大正7年(1918年)に生じた米騒動を見て、貧富の差をなくして安定した社会を作りたいと考え、大正8年(1919年)7月大崎信用組合設立時に書記として入社。実務に精励し次第に頭角を現す。

昭和20年(1945年)2月専務理事就任。同年8月10日に空襲により被害を受けた東京城南地区の15の信用組合が合併して城南信用組合が発足し、専務理事に就任。同年12月、産業組合の代表として政府の財産税調査立案に関する委員会委員に就任して新円切替に携わり池田勇人、前尾繁三郎などと懇意を得る。

昭和25年(1950年)6月1日の信用金庫の親機関である「全国信用協同組合連合会」(現:信金中央金庫)の発足に尽力し常務理事に就任。ちなみに同連合会は城南信用金庫の応接を事務所として発足した。昭和26年(1951年)6月15日に信用金庫の単独法である信用金庫法の成立に尽力する。

昭和31年(1956年)5月に初代理事長である代田朝義(六郷信用組合:後に大田区長となる)、2代目理事長である酒井熊次郎(元入新井信用組合長)のあと、城南信用金庫の3代目理事長となる。

昭和38年(1963年)に全国信用金庫連合会(現:信金中央金庫)会長。昭和41年(1966年)3月に全国信用金庫協会長。以来両会長職を長年務め全国の信用金庫をまわるなど信用金庫業界の結束に尽力する。この間、大蔵省の金融制度調査会委員として預金保険法の成立や限度額の拡充など金融制度の整備にも貢献。昭和43年(1968年)の金融二法成立時には、株式会社化の危機にあった信用金庫制度を守りぬく。信金中央金庫の支店をニューヨーク、ロンドン、シンガポールに開設するなど国際業務の拡充に尽力、信金情報システムセンターSSCを設立、信金中央金庫による金融債の発行を実現など、中小企業と信用金庫業界の発展に貢献。「裾野金融」「貸すも親切、貸さぬも親切」「カードは麻薬」などの「小原哲学(名前の一字を取って、鉄学・鐵学とも言われる)」は現在も信用金庫業界の経営理念として残る。

世のため人のために貢献する有為な人材を育成するために財団法人小原白梅育英基金を設立し全財産を遺贈。同財団は日本でも有数の奨学育英基金となる。

昭和52年(1977年)に信用金庫界全体の発展のために精力的に活動続けた長年の功績が認められて、日本の勲章の中の一つである勲二等瑞宝章を受章。

昭和62年(1987年)に全国信用金庫協会長名誉会長に就任それと同時に春の叙勲にて金融並びに広く産業経済の発展に長年にわたり尽くした功績により、日本の勲章の中の一つである瑞宝章の最高位の従三位勲一等瑞宝章を受章。これにより小原鐵五郎の功績称え全国455信用金庫が協力して東京都中央区京橋3丁目8−1の信用金庫会館前には小原鐵五郎の銅像を建立した。

小原鐵五郎の銅像の台石には次のように刻まれている。

小原鐵五郎氏は明治32年(1899年)11月1日、東京荏原郡大崎町に生れる。大正10年(1921年)城南信用金庫の前身である大崎信用組合に奉職。爾来、一業専念を信条として”信用金庫一筋”に歩む。永代に亘り全国信用金庫協会及び全国信用金庫連合会の会長として業界の発展に尽瘁、昭和62年(1987年)春の叙勲に於て、我が国の庶民金融並びに広く産業経済の発展に尽くした功績により、勲一等を親授せらる。

 ここに同氏の栄誉を祝して、全国455信用金庫が相集い永久にその功績を顕彰し敬慕の念を後世に伝えんとして、この寿像を建立す。 

      昭和62年(1987年)11月1日 全国信用金庫一同

平成元年(1989年)1月27日没,享年89歳

葬儀では、当時の内閣総理大臣(第74代)竹下登や大蔵大臣(大蔵省)の村山達雄なども葬儀に参列し弔辞を献じ、日本銀行総裁(第25代)の澄田智が弔辞を読み上げた。


小原哲学

裾野金融

昭和41年(1966年)に、金融制度調査会において、競争原理の導入による金融効率化論議が行なわれ、その中で、協同組織にもとづく信用金庫を株式会社に改変して、信用金庫を資本の原理の下に大銀行に合併統合してしまおうという「滝口試案」が滝口吉亮政府委員から出された。また同様に会員組織を否定する「末松試案」が名古屋大学の末松玄六教授から出された。しかしながら、そもそも、協同組織運動は19世紀の英国において株式会社の弊害を是正するために生まれたものである。すなわち、出資額に応じて企業支配をする株式会社は株主・資本家の利益を目的とした経営が行なわれるため、労働者や消費者などの庶民は搾取され、貧富の差が拡大し、企業買収が容易なので資本の独占化が進むなどの問題があった。このため、イギリスのロッチデールにおいて、労働者が集まって、儲け主義ではなく、利用者である庶民の生活向上や相互扶助のために、一人一票の民主的な運営を行う企業組織を作ろうという理想のもとに誕生したのが協同組織の起源である(ロッチデール先駆者協同組合)。この社会運動がドイツに渡り、それを模範として、明治期に日本に導入された産業組合が信用金庫の起源である。この産業組合は「地方自治の基礎」として地方自治体が社会安定の観点から地域の有力者に設立を要請するなど公共的な役割が期待されていた。「滝口試案」はこうした協同組合運動の歴史や役割を踏まえぬ議論であり、まさに信用金庫制度存亡の危機であった。

これを知った小原は全国の信用金庫に団結を呼びかけると共に、反対の先頭に立って中央大学の川口弘教授の提案した会員組織を維持する「川口試案」を支持して、金融制度調査会で論陣を張った。

小原は「信用金庫は中小企業の金融機関だ。株式組織にすれば、大企業中心になってしまう」と激論を述べ、一転して「およそ八百屋であれ魚屋であれ、企業にはビジョンというものがあるが、滝口試案のどこに信用金庫のビジョンがあるのか、伺いたい」と問いただした。返答に窮する政府委員に対して、信用金庫設立の経緯と理念を、富山で米騒動が起こった背景から諄々と説明し、「中小企業の育成発展、豊かな国民生活の実現、地域社会繁栄への奉仕」という信用金庫の3つのビジョンについて語り、「超資本主義で事を進めるなら、いつか貧富の差が激しくなり、階級闘争が火を吹くかもしれない。平和な世の中を作るには、信用金庫の存在こそ必要ではないのか」と述べ、そして小原は最後こう言い放った

「富士山の秀麗な姿には誰しも目を奪われるが、白雪に覆われた気高い頂は、大きく裾野を引いた稜線があってこそそびえる。日本の経済もそれと同じで、大企業を富士の頂としたら、それを支える中小企業の広大な裾野があってこそ成り立つ。その大切な中小企業を支援するのが信用金庫であり、その役割は大きく、使命は重い」と最後をそう締めくくったのである。

これが「裾野金融論」であり、その場に居た、時の銀行局長であり後の日本銀行総裁澄田智は小原の主張にえらく感銘を受け「これは小原鐵学である」と評したという。中山素平(日本興業銀行(現:みずほフィナンシャルグループ)の元頭取、会長)なども委員会の委員は立場を超えて小原に感銘し共感し、末松教授も小原に賛同し、最終的には、小原に好意をもった澄田の翻意により、「滝口試案」は廃案となり、「川口試案」が基本となり、信用金庫制度は存続され、金融二法と呼ばれる「中小企業金融制度の整備改善のための相互銀行法、信用金庫法等の一部を改正する法律」(43法律85号)及び「金融機関の合併及び転換に関する法律」(43年法律86号)が制定された。この合併転換法は、当初、銀行が信用金庫を合併する条項しかなかったが、逆に信用金庫が銀行を合併できるような法律構成にしなければ不公平だと小原が強く主張し、最終的にいずれも可能にした。今日の信用金庫があるのは小原のお陰でもあり、現在の信用金庫の礎を築いた人物ともいえる。

貸すも親切、貸さぬも親切

大崎信用組合に入社した若い小原は、夜間は産業組合中央会の勉強会に通い、簿記や法律など金融の基本実務の習得に励んだ。その産業組合中央会の弁論大会で小原は「銀行は利息を得るためにお金を貸すが、我々組合は、先様のところへ行ってお役に立つようにと言ってお金を貸す。たとえ担保が十分であり、高い利息が得られたとしても、投機のための資金など先様にとって不健全なお金は貸さない。貸したお金が先様のお役に立ち、感謝されて返ってくるような、生きたお金を貸さなければならない」と述べこれを「貸すも親切、貸さぬも親切」と要約した。また、日頃から「お金を貸す」という言葉ではなく、「ご心配して差し上げる」という言葉を使い「銀行はお金を貸すことに目がいくが、信用金庫は、相互扶助を目的とした協同組織金融機関であり、まず先様の立場に立って、事業や生活のご心配をし、知恵を貸し、汗を流して、その発展繁栄に尽力することが大切であり、その上で、資金が必要ならばご融資し、お客さまのためにならない資金ならお貸ししないことが親切である」と指導した。

この「貸すも親切、貸さぬも親切」は、幕末に英国の商業銀行の横浜支店支配人として来日し、後に大蔵省のお雇い外国人として、日本人に銀行業務を教え、「日本の銀行制度の父」と呼ばれたスコットランドの銀行家アレキサンダー・アラン・シャンドが、英語を学ぶためにシャンドの使用人として銀行支店に勤めていた若き高橋是清(後の大蔵大臣)や、銀行業務について師事していた渋沢栄一などに教えた英国の正統銀行哲学(サウンドバンキング)を忠実に受け継ぐものである。

シャンドは、「有力取引先の息子が遊興費を借りに来ても、本人のためにならないお金を貸すことは銀行員として行なってはならない。忠告をして親切に断ることが大切である。これはロンドンおよびウェストミンスター銀行の支配人を務め、銀行学者として学士院会員にも選ばれたジェームズ・ウィリアム・ギルバートの所説である」と教えた。ちなみにシャンドは、日露戦争当時にイギリスに戦費調達に来ていた高橋是清を助け、多数の銀行に紹介して、国債の引き受けを成功させ、日本の窮地を救った恩人である。

かつてのバブル期において、大手銀行は、株式や土地、ゴルフ会員権、変額保険などの投機を取引先に勧め、そのための資金を積極的に融資した。その後のバブル崩壊、デフレ経済により、取引先は多額の損失を被り、不健全な融資を勧めた銀行に厳しい社会的批判が寄せられたが、こうした中で、城南信金は「貸すも親切、貸さぬも親切」に徹し、取引先のためにならない投機的な融資を断ったため、取引先に損害をかけず、同時に、健全経営を堅持することができたという。一見合理性のある収益拡大のための投機も、合理性を懐疑し、長い歴史的見地から判断して、社会の良識に反することは長くは続かないという判断が大切であるという英国流の経験主義が「貸すも親切、貸さぬも親切」の根本である。

また小原は、日頃、支店長会などでも「融資を断る時は、相手の気持をよく考えて、できるだけ親切丁寧にして、本当にすまないという態度、姿勢を示すなど、相手に十分に配慮しなさい」と教えた。融資を断るときには、たとえば上着を相手に着せ掛けてあげるとか、具体的に細かい仕草まで教え、断った相手が失意に陥らないよう、かえって感謝されるように、十分に配慮することが大切だということを強調していた。

カードは麻薬

小原は昭和30年代に海外視察を行なって諸外国の金融情勢を調べ、また信金中金の国際業務を強力に推進し、ニューヨーク、ロンドン支店の設立には自ら実地調査するなど、国際派の側面があった。その小原が米国の金融情勢を視察した際に、アメリカ社会はクレジットカード漬けであり、安易な借金にたよる結果、堅実に働いて将来に備えるという「勤倹貯蓄の精神」を失い、生活が破綻し、貧富の差が拡大し、これが犯罪の増加などの社会不安を招いていると述べた。そして、日本でも拡大しつつあったクレジットカード、消費者金融に警鐘を鳴らし、「カードは麻薬」であり、こうしたクレジットカード、消費者金融が拡大すると、やがて日本もアメリカのように、社会治安が悪化し、凶悪な犯罪が続発し、不健全な社会になることは必至であると厳しい警告を発した。この警告は後年のクレサラ問題というかたちで日本でも現実化している。

貯蓄興国、借金亡国

小原は、庶民がしっかりとした蓄えを持たずに、病気などをきっかけに悲惨な生活を送ったり、高利貸しに手を出して、家屋敷や家財までも手放して生活破綻に陥ったりすることを強く憂いて、「豊かな国民生活の実現」のためには、まず貯蓄奨励が大切であるとつねに強調していた。そして、働いて貯蓄し、財産を多少なりとも持てば、物事の考え方や行動までも堅実になり、それが個人の生活の安定だけでなく、国家の繁栄にもつながるが、反対に、借金生活が当たり前になると、その国は衰退してしまうとして、「貯蓄興国、借金亡国」ということを、つね日頃から強調していた。

銀行に成り下がるな

信用金庫の前身である市街地信用組合を各地に設立したのは主に地域の町長などの有力資産家であった。彼らは「成金が跋扈する軽佻浮薄な風潮を是正して勤倹貯蓄の堅実な考えを地域に醸成するため」、「市街地信用組合は地方自治の基本」とする東京府などの地方自治体の方針、要請を受けて、「地域社会の繁栄のため」という公共的な目的のために、リスクが高く、収益の見通しもつかない、一歩間違えれば先祖伝来の財産を失う危険のある金融事業を、郡長などから説得されて、やむなく引き受けたケースが大半であった。このように、彼らは、銀行が利益目的で設立されたのとは異なり、市街地信用組合は、世のため、人のための公益事業であり、利益のために市街地信用組合を設立したのではないという、強い自負、プライドがあった。中には、組合を設立するのに当たり、先祖伝来の田畑を一部売却して資金をつくり、万が一にも預金者に迷惑をかけないように配慮するなど、背水の陣の覚悟でのぞんだ者もいた。昭和26年(1951年)に信用金庫法が制定された際に、無尽会社は相互銀行、信託会社は信託銀行、そして市街地信用組合は信用銀行という名称になる予定であったが、業界のリーダー達は、「市街地信用組合は公共的な目的のために設立されたのであり、金儲けを目的とした銀行とは違う」として「信用銀行」案に強く反発した。そこで舟山正吉銀行局長が、「それなら政府機関しかつかっていない金庫を特別に認めましょう。金は銀よりも上です」と提案して「信用金庫」という名称になった。こうした業界の先達者たちの強い誇りやプライドを肌身で知っていた小原は、銀行と信用金庫は違う、という意識が強く、しばしば「銀行に成り下がるつもりですか」、「あれは金儲けが目的ですよ」と語気鋭く、部下を叱りつけた。

人の性は善なり 

金融機関経営においては、お金を扱う関係から、相手を疑い、ともすれば「性悪説」で相手を考えるということが常識となっているが、小原は、若い時からのさまざまな経験と苦労を経た結果、逆に「人の性は善なり」ということを自らの信条としていた。あるとき、小原は、世間から山師と蔑視され、乱暴で、相手にされなかった人間から融資の相談があった。しかし小原は、そのときに、相手をそうした色眼鏡で見ずに、ひとりの人間として丁寧に接し、相手の人柄が信頼ができ、大丈夫と判断して「私はあなたを信用します」と告げ、思い切って融資をおこなった。その相手は事業に成功し、やがて国会議員となり、地元の名士が集まって祝いの宴席が設けられた。その際に、その国会議員は「小原さんはおられるかな。今日は床の間に小原さんをすえなきゃ俺は座らない。帰るぞ」と言い、末席にいた小原を招いて床の間に座らせ「私が五反田にいたころ、ほとんどの人が私をヤクザ扱いしたが、小原さんだけは、一人前の人間として扱ってくれた。だから私も、その信頼を裏切らないように、今日まで一生懸命働き、頑張ってきた。私が今日あるのは、ひとえに小原さんのおかげである」と深く感謝したという。こうした経験を経て、小原は「相手を信じて、恩情を持って接すれば、その心は必ず相手に通じ、相手もまた信頼と恩情に応えようと精一杯努力するものである。このように、『人の性は善なり』と考えるべきであり、私の経験でも、まず裏切られるようなことはなかった」と強調していた。

人柄に貸せ

小原は「融資に当たっては、担保主義ではなく、その人が真面目な人柄であり、将来その事業が必ず成功するはずだと思えば、お貸しすべきだ」と教えた。そして、つねに「人柄に貸せ」と述べ、信用金庫は地域に密着し、会員の評判や仕事ぶりを的確に把握しているのだから、相手の人間を見て、商売のやり方をみて貸すことが肝心であると強調していた。具体的にも「中小企業などは、いくらか油が染み付いた作業服をきた工場主、前垂れを掛けた商店主など、飾ることなく、地で来る人のほうが間違いがない。逆に奥さんにないしょでお金を借りに来るような人はだめだ。結局信用できるかどうかは、外観じゃなくて人柄だ」と教えた。

産業金融に徹する

小原は「銀行は晴れた日には傘を貸して、雨が降り出すと取り上げるというが、信用金庫はそういうことではいけない」、「企業に対しては、相手の立場に立って、低利の良質な資金を安定的に供給し、その健全な育成発展に貢献することが金融機関の使命である」と述べ、これを「産業金融」と称していた。そして、そのためにも、信用金庫は日頃から企業の経営実態を的確に把握し、親身なアドバイスに努めることが大切であると述べた。金融自由化や証券化により、間接金融から直接金融へというスローガンの下金融機関による投資信託やデリバティブの販売が拡大し、市場で金融商品を売買して利益を得る「市場金融」が拡大しているが、小原はこれを批判し「産業金融に徹する」ことの大切さを常に強調していた。かつてヒルファーディングやケインズ、ハイマン・ミンスキーも市場金融に警鐘を鳴らしていたが、近年、市場金融の拡大が製造業などの国民経済の安定的な発展につながらず、アジア通貨危機やリーマンショックなどを引き起こす中で、間接金融による「産業金融」を重視する小原の考えが再評価される。

国民経済が大切

小原は「経済は国民の幸せのためにある」という信念の下に、大企業の海外進出、産業の空洞化の進展を憂慮し、「このままでは、やがて日本の国民は働き場所を失い、失業者が急増し、国家が衰退する」と警告を発していた。当時は「自由貿易を拡大すれば、各国経済は成長発展する」という自由貿易論が支配的であり、「国民経済」という概念は保護貿易につながり、時代に逆行する旧態依然の考えであると軽視された。しかし、その後プラザ合意、日米貿易摩擦、構造改革を経て、経済のグローバル化が進展するなかで、小原の懸念は現実のものとなり、日本経済はデフレと失業に苦しめられる状況となった。近年「国民経済」を重視したフリードリッヒ・リストやケインズを再評価する動きがあるが、小原の考えはある意味でこうした時代を先取りしていた。

心に残るような意地の悪いことをしない

小原は自身の健康法について生前こう語っていた。

自身の一番の健康法は、人に「心に残るような意地の悪いことをしない」ことだと答えている。人を大切にし思いやりの心や気配りの心をとても大切にしていた小原自身の人柄がよくあらわれている言葉である。

主な著書

  • 「わが道ひと筋」(日本工業新聞社1969年)小原鉄五郎
  • 「私の履歴書」(日本経済新聞社1970年)小原鉄五郎
  • 「小原鉄五郎語録―庶民金融の真髄をつく」(金融タイムス社1973年) 小原鉄五郎
  • 「貸すも親切貸さぬも親切―私の体験的経営論 」(東洋経済新報社1983年) 小原鉄五郎
  • 「王道は足もとにあり―小原鉄五郎経営語録」(PHP研究所1985年)小原鉄五郎
  • 「この道わが道―信用金庫ひと筋に生きて」(東京新聞出版局1987年) 小原鉄五郎
  • 「小原鉄五郎伝」(金融タイムス社1980年)
  • 「小原鉄五郎伝II」(金融タイムス社1988年)
  • 「小原鉄五郎伝―追悼総集編」(金融タイムス社1989年)

脚注

  1. ^ 一般社団法人全国信用金庫協会”. www.shinkin.org. 2006年4月1日閲覧。
  2. ^ 公益財団法人小原白梅育英基金”. www.jsbank.co.jp. 2005年9月10日閲覧。
  3. ^ 信用金庫会館” (日本語). 信金中央金庫京橋別館. 2007年1月24日閲覧。
  4. ^ 小原鐵五郎像” (日本語). Google Maps. 2009年3月31日閲覧。
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