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Japanese politician
Tateishi Chimata
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Intro
Japanese politician
Places
was
Work field
Gender
Male
Birth
Positions
member of the House of Representatives of Japan
member of the Okayama Prefectural Assembly
The details (from wikipedia)
Biography
立石 岐(たていし ちまた、1847年6月25日(弘化4年5月13日)- 1929年(昭和4年)4月4日)は、明治時代の政治家、養蚕家。自由民権運動家。衆議院議員(3期)。旧姓は小野。
経歴
亀岡藩の郷士小野某の三男として備中国浅口郡、のちの船穂村(船穂町を経て、現倉敷市船穂町船穂)に生まれる。幼少期に小野春発に学んだのち森田節斎の門に入り、さらに中原某に武術を学んだ。19歳の時、美作津山藩領西西条郡二宮村(苫田郡二宮村を経て、現津山市二宮)の豪農立石正介の養嗣子となった。父の正介は大橋敬之助(立石孫一郎)とともに尊王攘夷に奔走し、遂には終身禁固に処され獄死した。
1878年(明治11年)中島衛らと津山に共之社を結成し養蚕業の育成に取り組む。翌年、県制発布とともに岡山県会議員に当選したが、その翌年辞した。自由民権を唱え、1882年(明治15年)には県内の有志を募り津山にて政談いろは新聞を発刊したが、直ちに発禁処分となった。1884年(明治17年)には判事補となり岡山始審裁判所詰を命じられた。その後、1889年(明治22年)2月の大日本帝国憲法公布に際して衆議院議員を志し、加藤平四郎らが組織する美作国友愛会に所属した。さらに同年5月に東京で行われた大同団結大会に臨み、県下の有志を募り備作大同倶楽部を組織した。ほか、勧解吏員、中国鉄道取締役などを務めた。
1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では岡山県第1区から自由党所属で出馬し当選。第2回総選挙、第4回総選挙でも当選し衆議院議員を通算3期務めた。
人物
もと大酒飲みであったが、クリスチャンに改宗し以後断固禁酒した。
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