Saionji Kinkazu
Quick Facts
Biography
西園寺 公一(さいおんじ きんかず、明治39年(1906年)11月1日 - 平成5年(1993年)4月22日)は、日本の華族、政治家、実業家。参議院議員、外務省嘱託職員、太平洋問題調査会理事などを歴任した。 ゾルゲ事件に連座して逮捕、有罪となり公爵家廃嫡となった。
生涯
生い立ち
明治39年(1906年)11月1日、公爵西園寺家の嫡男として神奈川県に誕生した。祖父は西園寺公望、父は公望の養子西園寺八郎(実父は旧長州藩主で・公爵毛利元徳)で、母は公望の娘・新子である。
学生時代
学習院初等科を経て、1924年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。附属中の同級生には、朱牟田夏雄(東大名誉教授)、春山泰雄(元サッカー日本代表)などがいた。その後、イギリスのオックスフォード大学へ留学。ここでマルクス主義の洗礼を受ける。昭和5年(1930年)にオックスフォード大学を卒業した。
帰国後
1931年に日本へ帰国。父八郎からコネで宮内省入りを勧められたが、「マルクス主義者である」として頑として拒絶。東京帝国大学大学院に在学中、外務省の試験を受けたが成績不良で不合格となる。結果詳細を知らされなかったにもかかわらず「英語は素晴らしくよくできたが、日本式の答案にはまるで不慣れ」と弁明したが、これを真に受けた近衛文麿は「折角きてくれるというのに、なんてもったいないことをするんだろう」と嘆いた。
その後近衛のコネを使い外務省嘱託職員を務めていたが、有資格者ではなかったために重要な案件に関係できなかったことを不服に思い辞職し、1936年にはグラフ雑誌『グラフィック』の社長に就任。
同年7月、カリフォルニアのヨセミテで太平洋問題調査会の第6回大会が開かれることとなり、オックスフォード時代の顔見知りで内閣書記官を務めていた牛場友彦の誘いにより日本代表団の書記として渡米。このとき、牛場から引き合わされて公一と同じ船室に入ったのが牛場の第一高等学校時代の同級生で、ゾルゲ事件で同じく逮捕され有罪となった尾崎秀実だった。なお尾崎とは帰路も同室になった。
なおこの頃中国の秘密結社についても研究しており、また中華民国における共産主義運動に関心を持っていた。このため、のちにゾルゲ事件に連座して逮捕、有罪となった際にも、「中国共産党員との交渉ルート確保のために執行猶予で保釈された可能性がある」と言う意見もある。
外務省嘱託
1937年に近衛文麿内閣が成立すると、近衛のブレーン「朝飯会」の一員として、尾崎らとともに軍部の台頭に反対し、対英米和平外交を軸に政治活動を展開した。また日中戦争下で「汪兆銘工作」にも参画、「自立した新政権」の樹立を目指したが、結果としては軍部の意向が強く反映された政権となった。
昭和15年(1940年)9月には再度外務省嘱託職員となり、この時期、松岡洋右外相に同行してヨーロッパを訪問、ヨシフ・スターリンやアドルフ・ヒトラー、ベニート・ムッソリーニとも会っているが、目立った活動はしていない。
昭和16年(1941年)7月には、内閣嘱託に。近衛首相より、「日米交渉について陸海軍の意見調整を図る」という任務が与えられたが、その裏ではソ連のスパイのリヒャルト・ゾルゲの手下である尾崎に協力し、様々な情報をソ連に流していた。なお同年には、新橋の芸者屋「河辰中」の芸妓だった雪江と結婚している。
ゾルゲ事件で逮捕
同年10月に、風見章が主催する昼食会の席上で、尾崎の逮捕を知る(ゾルゲ事件)。尾崎とは共に近衛内閣のブレーンとしてさまざまな情報交換を行っていた ことから逮捕された。その後裁判で禁錮1年6月、執行猶予2年の有罪判決を受けた。
このため嫡男としての爵位継承権を剥奪され、1946年に父・八郎が死去したあとの家督を弟の不二男に譲ると共に、西園寺家の相続権を放棄することとなった。なお大東亜戦争には、執行猶予と年齢などにより徴兵を逃れた。
大東亜戦争後
大東亜戦争後に日本がソ連を含む連合国軍の占領下にあった中で執行猶予が解けた。その後は実家の資産を投じて『グラフィック』誌の仲間と共に『世界画報』を創刊。また、新設プロ野球球団である「セネタース」(現在の北海道日本ハムファイターズ)のオーナーを短期間務めるなど、相続権こそ失ったものの、潤沢な実家の資産をばら撒きながら自由な生活を享受した。
1947年には、 第1回参議院議員通常選挙に無所属で出馬して当選。しかし肝臓ジストマに侵されていた公一は参院で欠席の記録を作り、議員としては見るべき活動ができず、2回目の参院選には落選。昭和29年(1954年)には京都市長選挙に出馬して落選する。
このあたりより、第二次世界大戦で消えたかと思った左寄りの姿勢が表ざたになり、1955年には、冷戦下でソ連や東ドイツ、ポーランドなどの東側諸国(社会主義国)政府の主導で設立された「世界平和評議会」に、日本共産党系の日本平和委員会から「日本代表」として送られ、そのままオーストリアのウィーンの評議会の執行部に「書記」の身分で単身滞在し3年間を過ごす。
中華人民共和国への移住
この間、1957年に世界平和評議会の大会をセイロンで開くことになって中華人民共和国に相談に立ち寄った際、同国から「人民交流」の日本側の窓口となる人物の推薦を頼まれたことがきっかけで同国の「民間大使」となる。日本に帰国してから間もなく家族を連れて中華人民共和国へ移住し、中国共産党から「日中文化交流協会常務理事」や「アジア太平洋地域平和連絡委員会副秘書長」の肩書と、500元(毛沢東の月給は600元)と大臣クラスの給与を与えられることになり、同政府の意向を受けて北京にて国交成立前の日中間の「民間外交」を行った。
昭和33年(1958年)には日本共産党に入党するも、のちに日中共産党が不和となった結果、文化大革命初期の昭和42年(1967年)2月に北京滞在中に「日本人の勤労人民としての生活経験をもたず、中華人民共和国においても、社会主義の政府によって与えられている特恵的な生活になれて」、「特定の外国勢力に盲従して、分裂と破壊活動に狂奔するようになった」(『赤旗』)旨を以て除名処分となる。なお「北京空港事件」の現場にも居合わせた。
中華人民共和国からの追放と失脚
文化大革命による混乱の中で、その「反革命的な」出自と、劉少奇元国家主席らの「実権派」と親しいとされた立場について強い非難を受け、身に危険が及ぶ可能性も高くなったことから、1970年8月に各種肩書と給与を捨てて日本へ帰国。事実上の追放であった。
以後国内で言論活動を行い、かつて自らの給料を出して保護してくれた中国共産党や毛沢東、江青等を賞賛。また、自らが文化大革命の中で中華人民共和国を事実上追放されたにもかかわらず文化大革命を礼賛し、さらにかつては日中国交正常化に向けて親しく意見交換をしていた劉少奇を強く批判する言動を続けたため、保守派だけでなく、左派の言論人たちからさえ大きな疑念と批判を受けた。
さらに、文化大革命中より、その中国共産党におもねった言動に対して多方面から批判を浴びていたが、1970年代中盤に文化大革命が終結しその実情が暴かれたことで、西園寺の主張が完全に的外れなものであることが証明された。さらにその後、中華人民共和国内で文化大革命に対する批判がされた後は、完全に言論人としての立場を失った(後述)。
創価学会への接近
かつての文化大革命礼賛者は、その後宗教団体やカルト的団体に接近する者が少なくなかったが、西園寺も晩年は子息とともに創価学会寄りの姿勢を見せるようになる。入信こそしなかったものの、「外部の理解者」として、影響力を誇示しようとしていたようである。一方の創価学会にとっても、元ソ連のスパイであったものの、元公爵家継嗣で追放後も中華人民共和国と「近い」とされた西園寺は組織の「権威付け」には重宝な人物であった。
死去
1993年4月22日に老衰のため86歳にて死去。
評価
中共のハイファイ
かつては家柄がもたらすコネと財産を使い政府中枢に近づいた上に、ソビエト連邦のスパイとして逮捕されるなど国を裏切った。戦後は中国共産党から給料をもらう身となったが、この頃の公一については「中国の忠実な代弁者」、「昔、ハイファイを直訳して、高忠実度音響再生装置といったが、役柄としては、そのハイファイである」とも、また「北京の吉良上野之介」とも評されている。日中間に国交が無かった当時、イギリスの植民地である香港経由で中国共産党政府を訪れた日本人は、まず北京の西園寺邸を訪れた。そのとき、「『新中国』でいかに振舞うべきか粗相のないよう示唆を与える」のが公一の役目だったからというのである。
文革礼賛
さらに公一は、文化大革命開始当初にいち早くこれを支持し、毛沢東・江青夫妻や、のちに失脚する林彪などを礼賛し、西園寺が江青のことを「実に清潔な美しさに溢れた人だ」と褒めそやしたので、稲垣武が「肌のきれいな人なんでしょうね」と応じたところ、西園寺は顔色を変えて「君達ジャーナリストはそんな下卑た関心を抱くからダメなんだ」と叱り飛ばした(稲垣武、1997年、232-233頁。 )、また文化大革命の意義、意味を疑問視する保守派政治家や言論人、中華民国関係者を非難する言動を繰り返していた。その上に、西園寺の言動は中華人民共和国内で文革の宣伝・扇動にも用いられた。しかし次第に自らもその出自と立場を攻撃されることとなり、1970年に日本に半ば追放される形で逃げ帰ることとなった。
二転三転
帰国後も文革による混乱の中にある中国共産党を一貫して援護または称賛する姿勢を見せていたが、昭和51年(1976年)の毛沢東の死後に文革が終結し華国鋒によって江青ほか四人組が逮捕されると、西園寺はその態度を一変させた。昭和56年(1981年)、江青らに死刑判決が下ると早速これを支持し、かつては絶賛していた江青を非難するに至った。このように言論人として主張が変節したことについて、右派左派を問わず大きな批判を受けている。
家族
妻の西園寺雪江は、新橋の芸者屋「河辰中」の芸妓だった時、牛場友彦を介して公一と知り合い、2年間の年季を勤め上げお礼奉公を済ませた後で、公一と明石町で結婚(当初は事実婚)した(1941年)。
2人の間には長男一晃(フリージャーナリスト)と次男彬弘(雪江堂勤務)の2子が誕生した。なお、1958年、北京移住の直前に戸籍上も入籍している。雪江にも中国関係の著作がある。また、外交官の武者小路公共は父方の叔母の夫。政治学者の武者小路公秀は義理の従弟にあたる。
著書
- 『西園寺公一回顧録「過ぎ去りし、昭和」人間の記録』(2005年、日本図書センター)
- 『貴族の退場 — 異端「民間大使」の反戦記録』(1995年、筑摩書房)
- 『新編 釣魚迷』(1992年、つり人社)
- 『中国グルメ紀行』(1985年、徳間書店)
- 『北京十二年』(1970年、朝日新聞社)
- 『北京の八木節』(1965年、朝日新聞社)
訳書
- 『フライ・フィッシング Kaiko Ken’s Naturalist Books』エドワード グレイ(著)、西園寺公一(訳)(1985年、TBSブリタニカ)
脚注
- ^ 本田靖春『現代家系論』p.154(文藝春秋社、1973年)
- ^ 本田靖春『現代家系論』p.155(文藝春秋社、1973年)
- ^ リチャード・ディーコン『憲兵隊―日本の秘密警察史』
- ^ 本田靖春『現代家系論』p.166-167(文藝春秋社、1973年)
- ^ 本田靖春『現代家系論』p.165(文藝春秋社、1973年)
- ^ 文革礼賛派として積極的な言論活動を行った早稲田大学教授新島淳良は文革終結後教授を辞し、ヤマギシ会に入会している。
- ^ 西園寺一晃監修『周恩来と池田大作』2002年 朝日ソノラマ
- ^ 西園寺一晃ほか共著『インタビュー 外から見た創価学会』2006年 第三文明社
- ^ 創価学会に入信した元華族は少なくなかった。中でも池田大作の側近となり公明党参議院議員も務めた北条浩元創価学会会長、浩の叔父で同じく公明党参議院議員となった北条雋八元子爵が知られる(後北条氏)。戦国大名北条早雲の子孫が幹部を務めていたことは創価学会・公明党の権威付けに大きな効果をもたらした。また香淳皇后実兄久邇邦久侯爵の未亡人で、女優久我美子の大叔母でもある松浦董子が、苦しい暮らしの中熱心な信者であったことが董子死去時に紹介され話題となった。元公明党衆議院議員の池坊保子は創価学会員ではないが、父は元子爵梅渓通虎である
- ^ 本田靖春『現代家系論』p.167(文藝春秋社、1973年)
- ^ 「四人組が打倒された直後、事の真相を知らされた私は、しばし呆然自失した」、「前の段階では考えられなかった新しい事態が発生している。帰国してとりあえず『北京十二年』の絶版を申し入れ、私の自己批判の糸口とした」日中友好協会機関紙『日本と中国』1979年10月1日
- ^ 「文革中、私たちは江青にだまされていた。彼女は文芸面の先駆者として振舞っていたが、四人組の逮捕の後、毛沢東主席の指示を装って彼女が犯した罪がいかに奥深いものだったか、わかってきた。裁判での江青の態度が立派だったという人もいるが、そんなのは浪花節で、私は死刑が当然だし、執行猶予もつけなかった方がかえってすっきりした。」『朝日新聞』1981年1月26日朝刊
- ^ 稲垣武『悪魔祓いの戦後史―進歩的文化人の言論と責任』文藝春秋、1997年 ISBN 4163491708
- ^ 「執行猶予付き死刑など生ぬるすぎます。即刻、死刑にすべきです。私は中国の庶民にたくさん会いましたが、庶民の感情はそうです。」『諸君!』1981年4月号、西義之「日本の四人組は何処へ行った?」
- ^ 本田靖春『現代家系論』p.159-164(文藝春秋社、1973年)
関連項目
- 筑波大学附属中学校・高等学校の人物一覧
- 西園寺不二男 - 公一の弟。
- 住友家 - 住友財閥の創業者一族。西園寺家と二重の姻戚関係にある。
- 朝飯会
- 役に立つ馬鹿
北海道日本ハムファイターズ及びその前身球団歴代オーナー | |
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