
Quick Facts
Biography
新宣陽門院(しんせんようもんいん、生没年不詳)は、南北朝時代の南朝の皇族・女院・女流歌人。近世の南朝系図では、後村上天皇第一皇女で中宮・顕子(北畠親房の女)所生の憲子内親王(けんしないしんのう)に比定するが、それを裏付ける史料はない。近年は後醍醐天皇皇女に比定する説も有力である(後述)。
院号宣下以前には、一品宮(いっぽんのみや)・一品内親王と称した。
経歴
経歴は不明の点が多いが、正平14年/延文4年(1359年)6月阿野廉子(新待賢門院)の四十九日に七七忌御願文を奉納したのが初見。同年8月廉子の墓を観心寺に築くため、かつて同寺の祈祷料所でありながら朝用分として召し上げられていた河内小高瀬庄(大阪府守口市)を返付し、また12月に和泉大雄寺(孤峰覚明による開創)へ紀伊吉田庄の領家職を寄進した。『新葉和歌集』によると、正平23年/応安元年(1368年)5月後村上天皇を追憶して嘉喜門院と贈答歌を交わし(哀傷・1345)、翌正平24年/応安2年(1369年)春にはまだ一品宮と称していた(哀傷・1328)。従って院号宣下は長慶天皇によるものと思われるが、その事情は判然としない。元中3年/至徳3年(1386年)12月観心寺を新待賢門院の護摩所に指定。元中4年/至徳4年(1387年)2月河内高向庄領家職の年貢から毎年1,000疋を供料として同寺に与えることとし、元中6年/康応元年(1389年)7月同寺に和泉御酢免(大阪府堺市?)朝用分を寄進した。歌人として准勅撰集『新葉和歌集』に20首が入集する。
出自に関する異説
『大日本史』が嘉喜門院との贈答歌を根拠に後村上天皇の皇女と推定して以来、もっぱらこの説が踏襲されているが、女院が廉子の菩提を弔うために観心寺に寄進を重ねていることに着目した小木喬は、後醍醐天皇と廉子との間に生まれた末娘で、後村上の同母妹ではないかと疑っている。傾聴すべき見解であろう。
脚注
参考文献
- 井上宗雄 「新葉集の女流歌人」(久松潜一編 『日本女流文学史 古代・中世篇』 同文書院、1969年、NCID BN01844397)
- 東京大学史料編纂所編 『大日本古文書(家わけ第6) 観心寺文書』 東京大学出版会、1970年、ISBN 9784130910705
- 小木喬 「新宣陽門院」(『新葉和歌集―本文と研究』 笠間書院、1984年、ISBN 9784305101815)
- 所京子 「最後の斎宮祥子とその周辺」(『斎王の歴史と文学』 国書刊行会、2000年、ISBN 9784336042071)
関連項目
- 阿野廉子
- 観心寺
- 北畠顕統・阿野実為 - 新宣陽門院の別当を務めていたとみられる
- 覲子内親王(宣陽門院) - 後白河天皇第六皇女