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Japan
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Noguchi Kazushige
Japanese military commander

Noguchi Kazushige

The basics

Quick Facts

Intro
Japanese military commander
Places
Work field
Gender
Male
Birth
Place of birth
Kyoushinji Kakogawa City, Japan
Age
84 years
The details (from wikipedia)

Biography

野口 一成(のぐち かずしげ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、筑前国福岡藩士。黒田二十四騎の一人。通称は左助藤九郎


経歴

永禄2年(1559年)、播磨国加古郡野口で、教信寺の僧・浄金の子として生まれる。浄金は黒田孝高と親しく、囲碁仲間でもあった。天正3年(1575年)、元服して黒田氏の家臣となる。織田氏の傘下の黒田氏家臣として、天正5年(1577年)の高倉山城攻めでは、神吉小伝次を討ち取った。

天正8年(1580年)の三木合戦、天正15年(1587年)の財部城攻めなどでも戦功を挙げる。黒田家の九州豊前国移封後の天正16年(1588年)、旧領主城井鎮房暗殺の際にはその家臣を7人斬り伏せており、その功績から黒田長政から短刀を賜り、630石を拝領した。小田原征伐、文禄・慶長の役、木曽川・合渡川の戦い、関ヶ原の戦いにも参戦した。関ヶ原では身体の左側ばかりに傷を負いながら奮闘したため、通称を「左助」(さすけ)と改めることとなった。

慶長6年(1601年)、黒田氏が筑前国に入国した後、鉄砲組大頭に任命されて2,500石を拝領。また、益田正親と共に福岡城の石垣普請奉行も務めた。慶長11年(1606年)の江戸城天下普請の際には、母里友信と共に天守台の石垣を担当した。

元和9年(1623年)、長政が没し黒田忠之が跡を継ぐと、3,000石に加増されている。寛永7年(1630年)、福岡城南二の丸城番となる。寛永14年(1637年)の島原の乱では、忠之の呼び出しを受け、側に控えた。この戦陣の際、次男の万右衛門が討死している。この後、家督を孫の吉波(長男・一吉の子)に譲り、隠居して卜庵と号した。

寛永20年(1643年)4月8日死去。享年85。


逸話

ある剣客との仕合の際、一成は相手の木刀を左腕で受け止め、右手の木刀で突き倒したところ、「腕で受ける剣術というものはない」と冷笑されたため、具足櫃から籠手を取り出して見せたが、その籠手には多くの太刀痕が残っていたとされる。 この逸話は上述の「身体の左側ばかりに傷を負いながら奮闘」と話が合うため、一成の戦闘スタイルを窺い知ることができる。


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