Nō Itō
Quick Facts
Biography
伊藤 能(いとう のう、1962年1月16日 - 2016年12月25日 )は、将棋棋士。棋士番号205。東京都杉並区出身。米長邦雄永世棋聖門下。
棋歴
1984年に22歳で奨励会三段となったが、その後、なかなか四段昇段(プロ入り)ができなかった。
1987年に三段リーグ制度が復活し四段昇段は狭き門となるが、その第1回の四段昇段の2名は、いずれも米長門の弟弟子の中川大輔、先崎学であった。
その5年後、伊藤は、当時の規定である年齢制限(31歳までに四段昇段)の1期前の第11回三段リーグで2位に入り、四段昇段(プロデビュー)を果たした。その最終日は、リーグ順位22位、成績4番手で迎えたが、2戦2勝し、さらにライバルが敗れての大逆転で、伊藤自身は「神風」「奇跡」と表現した。
プロ入り後は主に早指し棋戦でその才能を発揮し、第44回(1994年度)NHK杯の予選を勝ち抜き本戦に進出。1回戦で森雞二に、2回戦では東和男にそれぞれ勝利した。いずれも、後手番から相手の得意戦法からの激しい攻めに動じることなく受けて立つ、伊藤ならではの勝局であった。
その他にも、要所要所で見せ場を作っている。第19回全日本プロ将棋トーナメント1回戦(2000年6月16日)では、後に初代永世竜王となる渡辺明に棋士人生初の黒星を喫させ、第61期順位戦・C級2組3回戦(2002年8月20日)では、第30回将棋大賞・連勝賞を受賞した山崎隆之の連勝を16で止めた。
その一方で、持ち時間が長い順位戦は不得手としており、C級2組で13年間指した間、指し分け(5勝5敗)を超える成績を収められず、第54期(1995年度)及び第64期(2005年度)で降級点を喫し、2006年にフリークラス宣言をした。
順位戦と同様に持ち時間が長い竜王戦も不得手としており、第6期(1992~1993年度)から第24期(2010~2011年度)まで、6組から昇進できずにいた。
2016年12月25日、現役のまま死去。死因は公表されていない。54歳没。これに伴い、日本将棋連盟は同日付で七段を追贈した。
棋風
- 居飛車党。受け将棋で相手の得意戦法や注文を受けて立つ。若手に強いと言われ、2013年には佐藤天彦七段(当時)を破っている。
人物
- 30歳8ヶ月での四段昇段は1987年度に現行の三段リーグが開始して以降の最年長記録、奨励会在籍17年は四段昇段者では最長記録である。四段昇段当時の奨励会幹事は、伊藤と奨励会同期入会の神谷広志及び大野八一雄であった。
- 自身が奨励会で苦労した経験もあってか、奨励会員には非常に優しく接する。自身の対局で記録係を担当した奨励会員が不慣れな様子を示した際も、当人が動揺しないよう配慮をする姿勢が伺える。近年は、タイトル戦の記録係を務めた渡辺正和五段など若手棋士に対しても、隣で様々な気配りを見せていた。
- 中学生の時に、通っていた将棋道場の席主から「プロになる気があるなら師匠を紹介するけど、棋士は誰が好きか」と問われ、「うーん、米長かなあ」と答えた。まさか、それがそのまま実現するとは思わず、伊藤の父は驚きの表情を飛び越えてオロオロしたという。
- 奨励会時代は、米長宅の側のアパートに住み、「半内弟子」生活だった。電話がないため、食事は内弟子の先崎学が伊藤を呼んで、米長宅で摂ったという。
- 観戦記の執筆でも知られ、『将棋ジャーナル』や『近代将棋』に連載していた団鬼六と親交があった。行方尚史がA級昇級した時は、団とともに貸切船の観桜遊覧で行方を祝った。
- また、真部一男や土佐浩司らに、囲碁の藤沢秀行名誉棋聖の自宅にも連れられて行き、酒の相手をした。米長に「藤沢秀行と初めて会った印象」を訊かれた時は、「名誉棋聖があまりにもインパクトが強すぎ、言葉が出なかった」と伊藤は答えている。
昇段履歴
- 1975年 6級 = 奨励会入会
- 1980年 初段
- 1992年9月1日 四段 = プロ入り
- 1999年7月27日 五段(勝数規定)
- 2012年4月1日 六段(フリークラス昇段規定)
- 2016年12月25日 追贈七段
主な成績
在籍クラス
竜王戦と順位戦のクラスは、将棋棋士の在籍クラス を参照。
主な著書
- 「棋士米長邦雄名言集 人生に勝つために」 (2014年、日本将棋連盟)
関連項目
- 将棋棋士一覧