Nanbu Mitsuyuki
Quick Facts
Biography
南部 光行(なんぶ みつゆき)は、平安時代後期から鎌倉時代前期にかけての武将。贈従三位。南部氏の始祖。
略歴
加賀美遠光の三男。
治承4年(1180年)、石橋山の戦いで源頼朝に与して戦功を挙げたため、甲斐国南部牧(現在の山梨県南巨摩郡南部町)を与えられた。このときに南部姓を称したという。文治5年(1189年)、奥州合戦で戦功を挙げ、陸奥国糠部五郡(二戸・三戸・九戸・七戸・北)を与えられた(盛岡侯南部氏系図)。現在の青森県八戸市に上陸し、現在の同県三戸郡南部町相内地区に宿をとり、その後、奥州南部家の最初の城である平良ヶ崎城(現在の南部町立南部中学校旧校舎跡地)を築いたという。建久元年(1190年)には頼朝に従って上洛し、その後、自身は奥州にはほとんど赴かず鎌倉に在住した。
また、『吾妻鏡』同年6月9日条に拠れば源頼朝の鶴岡八幡宮への御塔供養に際して「信濃三郎光行」が先陣随兵を務めておりこの頃は「信濃」を名字としていたが、『吾妻鏡』建久6年(1195年)5月20日条の源頼朝天王寺参詣に際には南部姓を称しており、この記事が下限となっている。
また、建治元年(1275年)「六条八幡宮造営注文」に拠れば、列挙された甲斐国御家人の中に「南部三郎入道跡」が見られる。
死没年には建保3年(1215年)11月21日、嘉禎2年(1236年)3月18日など様々な説があるが、嘉禎4年(1238年)2月に4代将軍・藤原頼経に従って上洛したという説もあり、定かではない(有力な説は1236年説であり、頼経時代以後も生きていたかどうかには疑問がある)。死後、従三位を贈られた。
六人の息子がおり、長男の行朝は庶子のため一戸氏の祖となり、次男の実光が三戸南部氏を継ぎ、三男の実長は八戸氏の祖、四男の朝清は七戸氏の祖、五男の宗清は四戸氏の祖、六男の行連は九戸氏の祖となった。
系譜
- 父:加賀美遠光(1143-1230?)
- 母:杉本義宗の娘 - 和田義盛の妹
- 室:不詳
- 生母不明の子女
- 長男:一戸行朝
- 次男:南部実光(1181-1255?)
- 三男:南部実長(1222-1297)
- 四男:七戸朝清(?-?)
- 五男:四戸宗清
- 六男:九戸行連
系図
源頼義┃ 源義光┃源義清 ┃源清光 ┏━━━━━━━━━━┫武田信義 加賀美遠光━━━┳━━━和田義盛の姉妹┃ ┃ ┃ ┏━━━━╋━━━━┳━━━━┓ 一条忠頼秋山光朝 小笠原長清 南部光行 大弐局 ┃ ┏━━━━━╋━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┓ 行朝 実光 実長 朝清 宗清 行連 (一戸氏) (三戸氏) (八戸氏) (七戸氏) (四戸氏) (九戸氏)
その他
吾妻鏡において、「信乃三郎」(信濃三郎)と記載されているため、しばしば志村光行と表記されることがある。