peoplepill id: nakamura-motooki
NM
Japan
1 views today
1 views this week
Nakamura Motooki
���学者

Nakamura Motooki

The basics

Quick Facts

Intro
���学者
Places
Work field
Gender
Male
Birth
Place of birth
Minowa, Nagano Prefecture, Japan
Age
64 years
The details (from wikipedia)

Biography

中村 元起(なかむら もとおき、文政3年6月2日(1820年7月11日)- 明治17年(1884年)4月30日)は幕末の儒者。明治時代初期の教育者。号は黒水、半狂。通称は忠蔵、郁之丞。幼名は竜治郎、字は喜卿。中村弥六は次男。

生涯

信濃国高遠藩藩医兼藩儒の中村元恒(中倧と号す)の次男として、伊那郡大出村(現長野県上伊那郡箕輪町)に生まれる。弘化2年(1845年)に家学を継ぎ仕官する。また私塾を開いて子弟を教育する。嘉永2年(1849年)に複数の藩士が開墾事業を計画したことが藩主の逆鱗に触れ、連座して黒河内村(現伊那市長谷)に追放されるが、同6年(1853年)に赦免される。

安政元年(1854年)江戸に遊学して昌平黌で林復斎に学び、林家の塾頭となった。帰藩後の同4年(1857年)に藩主内藤頼直に藩校進徳館の創設を進言し、万延元年(1860年)の開闢と同時に教授となり、儒学の他、皇漢学、軍学、和洋算学、化学、物理学などを講義した。幕末には藩論を勤王に取りまとめ、新政府への帰順を周旋した。

明治維新後は筑摩県に出仕し学校掛となり、筑摩県学(後の開智学校)の創設に尽力した。後に太政官に出仕し、三等編修官に任ぜられ、修史と地誌の編述に従事した。また父業を継ぎ、郷土地誌の『蕗原拾葉』の続編を作成した。享年65。谷中の天王寺に葬られた。大正4年(1915年)11月10日に従五位を遺贈された。

著作

  • 「経書考」10巻
  • 「学易」1巻
  • 「武林拾葉」2巻
  • 「蕗原拾葉」続編 

脚注

  1. ^ 「中村黒水」『信濃人物誌』310-311頁。
  2. ^ 『贈位諸賢伝 増補版 上』 特旨贈位年表 p.38

出典

  • 佐藤寅太郎『信濃人物志』文正社、1922年。
  • 村沢武夫『信濃人物誌』信濃人物誌刊行会、1965年。
  • 『日本人名大辞典』講談社、2001年。
The contents of this page are sourced from Wikipedia article. The contents are available under the CC BY-SA 4.0 license.
Lists
Nakamura Motooki is in following lists
comments so far.
Comments
From our partners
Sponsored
Credits
References and sources
Nakamura Motooki
arrow-left arrow-right instagram whatsapp myspace quora soundcloud spotify tumblr vk website youtube pandora tunein iheart itunes