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Japan
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Miyake Ieyoshi
Japanese military commander

Miyake Ieyoshi

The basics

Quick Facts

Intro
Japanese military commander
Places
Work field
Gender
Male
Birth
Age
71 years
The details (from wikipedia)

Biography

三宅若狭家義(福岡市博物館蔵)

三宅 家義(みやけ いえよし、天文17年(1548年) - 元和5年10月16日(1619年11月21日))は、戦国時代から江戸時代の武将、福岡藩士。通称は山太夫(さんだゆう)、藤十郎(とうじゅうろう)、若狭守。諱は家茂とも。黒田二十四騎の一人。

概要

摂津国三宅城主の家系に三宅次太夫の子として生まれ、天文22年(1553年)に三宅城が三好氏に攻められて落城すると、父と共に脱出した。それ以後は渡り奉公をしていたようであるが、明確なことは不明である。天正3年(1575年)、黒田孝高に取り立てられ、300石を与えられる。

動向

天正5年(1577年)の第一次上月城の戦いで、支城の大の山城を囲んだ際、「自分に命じていただければ、あのような小城を落とすのは朝飯前」と発し、孝高によりその度胸を褒められて、通称を『孫子』の「動かざること山の如し」から採って「山太夫」と改める。その後、自身の発言通り一人で城に乗り込んで敵を降伏させた。

天正15年(1587年)の城井鎮房の反乱の際には、鎮房へ降伏を勧める使者を4度にわたって務め、城井朝房と鶴姫を人質に出させることに成功した。その功績により、黒田長政から刀と1,500石を与えられた。文禄の役でも戦功を挙げたが、三宅家中の者が陣所で小屋を一軒焼く火災を起こしてしまい、それまでの功績から切腹は免れたものの、恩賞としての加増はされなかった。

慶長6年(1601年)、黒田家が筑前国に入国した後は3,600石を拝領し、若松城代となる。その他、代官料1万石を預けられ、水軍を統括する船手頭にも任命されている。慶長9年(1604年)、孝高の死後、長政により「若狭守」の受領名を与えられた。

元和5年(1619年)10月16日死去。享年72。

家義の死後

子の忠兵衛は長政に近習として仕え、500石を領していたが、長政の正室・栄姫の侍女に手を出すという不祥事を起こしたため、栄姫に切腹を求められたものの、長政の取り成しで追放処分に留まった。これにより、家義の遺領も没収されて家は断絶している。

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