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Mitsuji Ōta
The details (from wikipedia)

Biography

太田 光二(おおた みつじ、1900年3月20日 - 1973年1月7日)は、日本の政治家、新聞記者。第13-15代岡崎市長(3期)、愛知県議会議員、岡崎市議会議員、全国市長会副会長、日本消防協会副会長などを歴任した。

経歴

1949年に発足した愛知学芸大学(岡崎市明大寺町)
1965年4月1日~20日、岡崎市は「家康公350年祭」を開催した。

父親は伊賀八幡宮の神官の家来だった鈴木四郎三郎。鈴木が愛知県額田郡下山村田代(現・豊田市下山田代町)に逃れていた頃、三男として生まれた。5歳の時、一家をあげて本籍地の岡崎へ戻った。幼少時に父を亡くし、母方の実家の太田家を継ぐ。広幡町立広幡尋常高等小学校(現・岡崎市立広幡小学校)を卒業後、教師として身を立てるつもりで足助町の准教員養成講習会に通う。免許を受ける際、修身の科目を落としたため教師の道は一旦閉ざされる。

1916年(大正5年)、竹内京治の『岡崎朝報』に新聞記者募集の広告が出ていたのを見つけた母親から「字が習えるから」と記者になることをしきりにすすめられ、同社の試験を受けて入社。20歳の時、市内松本町の置屋「浅岡」の娘と結婚。

1921年(大正10年)、『名古屋毎日新聞』に転職。一面の随筆欄へ「奇怪なる自我の研究」と題する一文を寄稿したことがあった。これを『山梨民友新聞』が無断で転載すると、同紙は秩序紊乱のかどで摘発される。検察側はその内容を「政界、財界の現状に不満をもち、元老、重臣暗殺を示唆する」ものとし、筆者の太田は新聞紙法違反に問われ、禁固2ヶ月、罰金100円を言い渡された。入獄中、原敬首相暗殺の報を聞き衝撃を受ける。「私の随筆のなかの政治への諷刺が現実の形をとって現れたわけで、処罰そのものに得心がいくとともに、これが私の政治への開眼ともなった」とのちに述べている。

出所後は知多郡半田町の『尾三通信』、碧海郡新川町の『新愛知』、西尾町の『尾三新聞』、『名古屋新聞』岡崎支局などを経て、再び『岡崎朝報』に戻り、それから岡田撫琴に迎えられて『三河日報』の主筆となった。

1927年(昭和2年)6月1日、憲政会と政友本党が合併して立憲民政党が成立。同党三河地区の機関紙『三河時報』の発行を任される。

1928年(昭和3年)10月5日執行の岡崎市会議員選挙に出馬するも落選。会社に言わずに選挙に立ったため、社長の岡田撫琴の逆鱗に触れ『三河日報』を退職。同年11月、立憲民政党岡崎支部である岡崎民政倶楽部が分裂し、岡崎民政青年団が設立されると、太田は同団体の常任幹事となった。

1932年(昭和7年)10月5日の市議選で初当選。1939年(昭和14年)9月、愛知県会議員選挙にも民政党から出馬し初当選した。

県議選に当選した年の4月に広幡警防団長を拝命、消防活動に挺身した。1945年(昭和20年)7月20日の岡崎空襲に際しては、7時間余りにわたって猛火の阻止に当たり能見町、元能見町、福寿町、材木町一帯の警備区域防衛に成功した。

戦災復興

1947年(昭和22年)1月20日、特別都市計画法に基づく土地区劃整理委員会委員長に就任。竹内京治市長とともに戦災復興土地区画整理事業を意欲的に推進した。岡崎市は戦災都市の中でも復興成績がとりわけ優秀だったため、1949年(昭和24年)6月27日に全国の「戦災復興モデル都市」に指定されている。1948年(昭和23年)5月18日から1951年(昭和26年)4月7日まで岡崎市議会議長を務めた。

1950年(昭和25年)8月30日から1951年(昭和26年)4月29日まで愛知県議会議長を務めた。

1948年(昭和23年)から翌年にかけて愛知県大学設置調査委員会の委員長として愛知学芸大学(現・愛知教育大学)の誘致に尽力。愛知学芸大学は1949年(昭和24年)5月31日に発足し、同年9月19日、岡崎市明大寺町字西郷中38番地を本部とすることが定められた。

1955年(昭和30年)4月、県議選に自由党から出馬し4期目の当選。

1958年(昭和33年)3月7日、消防行政功績者として藍綬褒章受章。戦後は『中部消防新聞』の社主も兼ねた。

市長選に出馬

1957年(昭和32年)、新たな後援団体「光会(ひかるかい)」を結成。しかし太田は明くる年の半ばを過ぎても去就を決しかねていた。ところへ1958年(昭和33年)9月16日、『東海新聞』に「太田光二氏、市長選へ踏切る」とのスクープ記事が掲載される。3期引退を予定していた現職の竹内京治は4選出馬を決断。10月15日には竹内の推薦母体となる愛市連盟の結成準備委員会が開かれることとなった。10月25日、この事態を重く見た岡崎市議26名は「円満な話合いによって調整一本化を図るため居中調停の労を執りたい」と述べた声明書を発表するが、竹内は同日、市長選出馬を正式に表明した。

太田には桑原幹根愛知県知事、倉知桂太郎県議会議長、中垣國男(衆議院議員・自民党)らが支援するほか、自民党愛知県連が推薦を決定し、4選を狙う竹内には小林錡(衆議院議員・自民党)、太田一夫(同・社会党)、柴田栄(参議院議員・自民党・全国区)らがついたため、1959年(昭和34年)の岡崎市長選挙は4年前の市長選と並ぶ凄惨な争いとなった。社会党岡崎支部においては、執行部が独断的に竹内推薦を決めたとして反主流派(伊藤よし子派)が反発。同年3月20日に党員21名が離党するという事態を招いた。投票は4月30日に行われ、太田が得票数42,445票で初当選を果たした(竹内は39,067票)。5月2日、第13代岡崎市長に就任。

1962年(昭和37年)10月15日、岡崎市は碧海郡六ツ美町を編入。

1963年(昭和38年)、無投票で再選。1964年(昭和39年)6月26日から1965年(昭和40年)7月9日まで全国市長会副会長を務めた。

1967年(昭和42年)4月に3選。同年6月28日、3期12年にわたって竹内・太田市政を支えた助役の浅岡齋が退任。1970年(昭和45年)4月29日、勲三等瑞宝章受章。

1971年(昭和46年)4月の市長選で元県議の内田喜久に敗れ落選。同年7月1日、岡崎市名誉市民に推挙される。

1973年(昭和48年)1月7日、脳卒中により市内伊賀町の自宅で死去。72歳没。


語録

    脚注

    注釈

    出典

    参考文献

    • 『新編 岡崎市史 近代 4』 新編岡崎市史編さん委員会、1991年3月30日
    • 『新編 岡崎市史 総集編 20』 新編岡崎市史編さん委員会、1993年3月15日
    • 『日本の歴代市長 第二巻』 歴代知事編纂会、1984年11月10日
    • 久米康裕編 『新編 三河知名人士録』 尾三郷土史料調査會、1939年10月21日
    • 東海新聞社編纂 『岡崎市戦災復興誌』 岡崎市役所、1954年11月10日
    • 宮川倫山編 『全岡崎知名人士録』 東海新聞社、1962年6月1日
    • 『愛知県議会史 第九巻』 愛知県議会、1981年3月16日
    • 『岡崎市議会史 上巻』 岡崎市議会史編纂委員会、1992年10月22日
    • 林茂、太田光二ほか11名 『三河現代史』 東海タイムズ社、1959年11月5日


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