Masao Tajima
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Biography
田島 正雄(たじま まさお、1890年(明治23年)5月8日 - 1962年(昭和37年)8月17日)は、大正から昭和期の実業家、政治家。大阪商船副社長、大阪商工会議所会頭、貴族院勅選議員。
経歴
奈良県添上郡奈良町角振新屋町11番地(現奈良市)で、田島基光の五男として生まれる。1913年(大正2年)7月、東京高等商業学校を卒業した。
卒業後、宇治川電気に入社した。語学の才があり勧誘を受け、1916年(大正5)12月に大阪商船に転じた。あふりか丸事務員、ロンドン在勤員、ケープタウン在勤員、ニューヨーク支店長を務め、1937年(昭和12年)1月、本社遠洋課長に就任した。1939年(昭和14年)1月、取締役に昇進し、専務取締役を経て、1944年(昭和19年)11月、副社長に就任した。この間、1942年(昭和17年)4月、船舶運営会理事長に就任し、同総裁(1943.10.1-1944.6.7)、運輸通信省海運総局海運局長(1944.2.26-6.6)を務め、戦時下の海運統制、運営に協力した。その他、原田汽船取締役、朝鮮郵船取締役、日本海汽船取締役、国際運輸取締役、山際運輸取締役なども務めた。
1946年(昭和21年)3月22日、貴族院勅選議員に任じられ、同和会に属して活動し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。
1946年9月、大阪商工会議所会頭に就任したが、公職追放となり同年12月に会頭と大阪商船副社長を辞任した。
1949年(昭和24年)10月、第一汽船(現第一中央汽船)社長に就任し、会長を経て1953年(昭和28年)5月に退社した。1956(昭和31年)3月、大阪国際見本市委員会理事長兼事務局長に就任し、1960年(昭和35年)6月まで在任して貿易の振興に尽力した。
その後、病のため療養をしていたが、1962年8月、心不全のため伊丹市民病院で死去した。
著作
- 述『東アフリカの事情』〈講演倶楽部 no.7〉阪神実業協会、1926年。
- 『東アフリカ経済事情調査報告書』大阪商船、1926年。
- 『阿弗利加の旅』大阪商船、1942年。
- 述『船舶運営会に就て』生産拡充研究会、1942年。
- 『未完成の第二次大戦』創元社、1956年。