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Biography

馬 成(ば せい、? - 56年)は後漢の武将。字は君遷くんせん)、南陽棘陽(河南省新野県)の人(『後漢書』列伝12・本伝)。光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第17位に序せられる(『後漢書』列伝12)。

略歴

姓名馬成
時代新代 - 後漢時代
生没年生年不詳 - 58年(建武32年)
字・別号君遷(字)
本貫・出身地等荊州南陽郡棘陽県
職官安集掾〔劉秀〕→守郟令〔劉秀〕

→期門〔劉秀〕→護軍都尉〔後漢〕
→揚武将軍(後に兼天水太守)〔後漢〕
→守中郎将〔後漢〕→行大司空事〔後漢〕
→揚武将軍〔後漢〕→中山太守〔後漢〕

爵位・号等平舒侯〔後漢〕→全椒侯〔後漢〕
陣営・所属等更始帝→劉秀(光武帝)
家族・一族子:馬衛

若くして県吏となる。劉秀が潁川を掌握すると馬成を安集掾とし、郟県の令代行に移した。劉秀が更始帝に命じられて河北の調略に及ぶと、官を棄て荷を背負い徒歩にて、これに合流し期門(警備兵)として従軍した。

建武1年(25年)、劉秀が即位すると護軍都尉に移った。

建武4年(28年)、揚武将軍を拝命し、誅虜将軍・劉隆、振威将軍・宋登、射声校尉・王賞を率い、会稽・丹陽・九江・六安の四郡の兵を徴発して淮南の李憲を討った。馬成は李憲を舒において包囲し、諸軍に壕・防塁を設けさせ、李憲が挑んでも防壁を固めて出ず、1年余り陣を守った。

建武6年(30年)春、舒城の食糧が尽きたので馬成はこれを攻めて李憲を斬り、その残党を追撃して長江・淮水流域を平定した。

建武7年(31年)、平舒侯に封ぜられた。

建武8年(32年)、劉秀の親征に従って、当時の群雄の1人、天水の隗囂を破る。天水太守となり、将軍職は元の通りであった。のち洛陽に召還された。

建武11年(35年)、来歙に代わって中郎将を代行し、武威将軍・劉尚らを率いて河西を平らげた。

建武12年(36年)12月、大司空・李通の辞職により大司空を代行した。数ヶ月後、再び揚武将軍を拝命した。

建武14年(38年)、常山・中山に駐屯して北方を守備した。

建武15年(39年)に建義大将軍・朱祜が入朝すると、その兵の指揮権を引き継いだ。この年、弾劾されて官を免ぜられた驃騎大将軍・杜茂に代わり障塞の修復を指揮した。西河(オルドス・ジュンガル旗)から渭橋(咸陽近郊)に至り、河上(左馮翊。関中の東北部)から安邑(河東郡)に至り、太原から井陘に至り、中山から鄴に至り、それぞれ保壁・狼煙台を築造し、十里(約4km)毎に物見櫓を設置した。

北辺の守備に従事して5、6年、劉秀は馬成の勤勉さを労らって洛陽に召還した。しかし、北辺の人々で上書して馬成の復帰を請う者が多く、馬成はまた派遣された。南単于が北辺の守備を担当するに至り、馬成は中山太守を拝命して将軍の印綬を返上したが、屯兵の指揮権は元の通りであった。

建武24年(48年)、武谿(湖南省・辰州)の蛮族を討つが功無く、太守の印綬を返上した。

建武27年(51年)、全椒侯に封ぜられ、就国した。

建武32年(56年)、逝去した。

注釈

The contents of this page are sourced from Wikipedia article. The contents are available under the CC BY-SA 4.0 license.
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