Kyōgoku Takatoyo
Quick Facts
Biography
京極 高豊(きょうごく たかとよ)は、江戸時代前期から中期の大名。讃岐丸亀藩2代藩主。丸亀藩京極家4代。
生涯
播磨龍野藩主・京極高和の次男。高和は高豊出生から3年後の万治元年(1658年)に丸亀藩へ移封となった。寛文2年(1662年)に父の死により家督を継いだ。寛文4年(1664年)、曾祖母常高院の所領であった近江蒲生郡内の1400余石を加増され、このうち3000石を義兄高房へ分知した。寛文12年(1672年)、幕府に請願して近江の所領と播磨国2村を交換し、同地にあり京極氏歴代の菩提寺であった近江清滝寺を復興、付近に散在していた墓碑を一カ所に集めて整理し三重塔を寄進し歴代当主の墓を集めて並べ、寺院名を父の法名に基づき徳源院と改めた。この三重塔は現在、滋賀県の指定文化財に指定されている。延宝2年(1674年)、桜田久保町に上屋敷を建設し、駿河台狩野派の絵師田中八兵衛に鳳凰、牡丹、菊、四季山水、吉野竜田などを題材にする華やかな屏風類を製作させた。高豊は絵画に非常に堪能であったといい、野々村仁清にこの屏風絵をそのまま描いた壷を発注した文書が残り、その芸術的才能の片鱗をうかがわせる。仁清窯と京極家の関わりは高豊に始まるという。延宝4年(1676年)に丸亀城に移る。貞享5年(1688年)には城下町近くの下金倉村に大名庭園を築き万象園と名付ける。京極氏の故郷である近江の琵琶湖を模した池を中央に置き近江八景を配したこの庭園は日本三大海浜庭園の一つに数えられる。この間延宝9年(1681年)に叙任している。
元禄7年(1694年)、江戸からの帰国中に天然痘を患い、播磨国加古川において40歳で死去した。跡を五男の高或が継いだ。
『土芥寇讎記』では悠然とし温和であると評され、学もあり、家臣の善悪を把握していたとされている。また、元々かなりの相撲好きであったがそれを止めたことが記されている。
子孫
- 継室の市子(法名:松寿院、福岡藩主黒田光之外孫)との間に4男1女を儲け、このうち高或が嫡子となる。側室の梅子との間には長女・稲子、次女・辨子を儲けた。四男の高通は別の側室の所生で、1万石を分与され多度津藩主となる。
- 六角氏郷の養子となった男子はすなわち佐々木源氏の宗家を継いでいる。また、黒田家が多度津京極家から養子黒田治高を迎えるにあたり、市子との縁から選ばれたとされる。