Kurimura Saehachi
Quick Facts
Biography
栗村 左衛八(くりむら さえはち、嘉永2年6月1日(1849年7月20日) - 昭和4年(1929年)5月17日)は、日本メソジスト教会の最初の日本人伝道者の一人、後に同教団の牧師。会津藩士。1878年(明治11年)6月12日日本最初のキリスト教式結婚式を挙げた人物として知られる。
生涯
会津藩士時代
会津藩士荒木進三郎の次男として会津若松に生まれる。1864年(元治元年)に栗村家を継ぐ。1868年(慶応4年)会津戦争に従軍する。東京で謹慎処分を受けた会津藩士の一人として名前が載っている。
1873年(明治6年)の廃藩置県の後で、横浜に行き蓮卒(警察官)になる。横浜で教会に行き、キリスト教に回心する。
日本メソジスト教会時代
1875年(明治8年)にロバート・S・マクレイに就いて神学を治める。
1877年(明治10年)、横浜で開かれた第4回美以宣教師年会で栗村と飛鳥賢次郎、工藤友也、菊池卓平、阿部賢郎、小杉良平、相原英賢を合わせた9名が、米国年会に允許によって、最初のメソジスト派の日本人伝道者に任命された。
伝道者の准允を受けると、福富町講義所で伝道をする。1878年(明治11年)に執事按手礼を受ける。この年の6月12日、R・S・マクレイと長老派の宣教師J・H・バラの立ち合いのもとで、日本基督公会(現、日本キリスト教会横浜海岸教会)で桑名藩士小山正武の妹いさ子と結婚式を挙げる。
1881年(明治14年)に名古屋教会(現、日本キリスト教団名古屋中央教会)の初代牧師に就任する。1882年(明治15年)に東京築地教会に赴任する。
1883年(明治16年)に長老の按手礼を受ける。また、この年第三回全国基督教信徒大親睦会に幹部として参加する。
東京英和学校(現・青山学院大学)の設立にも参与として尽力する。1884年(明治17年)に日本メソヂスト横浜教会牧師、1887年(明治20年)には熊本メソヂスト教会(現・日本キリスト教団熊本白川教会)、久留米教会(現、久留米東町教会)、福岡教会(福岡中部教会)、鹿児島教会(現・日本キリスト教団鹿児島加治屋町教会)、名古屋第二教会、戸部(現・日本キリスト教団横浜上原教会)、八戸(八戸小中野教会)を歴任する。
1904年(明治37年)には青森教会(現・日本キリスト教団青森教会) に赴任して1914年まで青森で牧会する。その後、茨城県水海道町(現・常総市)、千葉県八日市場町(現・匝瑳市)、群馬県佐波郡島村(現・伊勢崎市)の島村教会(現・日本キリスト教団島村教会)などの教会を歴任する。
1925年(大正14年)に牧師を引退して、福岡連回長老、南九州連回長老司などを兼任する。1929年(昭和4年)に死去する。
日本キリスト教団本庄教会の教会墓地に栗村の墓石が残っている。
脚注
注釈
出典
- ^ 東京謹慎者・戊辰の役、殉難の士-会津への夢街道 2016年12月2日閲覧
- ^ 眞山 1987, pp. 6
- ^ 1870-1879の出来事の年表
- ^ 日本キリスト教団名古屋中央教会のHP
- ^ 日本キリスト教団青森教会HP