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The basics

Quick Facts

Gender
Female
Age
24 years
Family
Spouse:
Go-Horikawa
Children:
Emperor Shijō
The details (from wikipedia)

Biography

藤原 竴子(ふじわらの しゅんし/よしこ、承元3年5月22日(1209年6月25日)- 天福元年9月18日(1233年10月22日))は、鎌倉時代の后妃、国母、女院。後堀河天皇の中宮で、四条天皇と皞子内親王の母。九条 竴子(くじょう– )とも。女院号は藻璧門院(そうへきもんいん)。父は摂政関白左大臣九条道家、母は太政大臣西園寺公経女・藤原綸子。摂政関白左大臣九条教実、二条家の祖となった関白左大臣二条良実、鎌倉幕府第4代将軍・藤原頼経、一条家の祖となった摂政関白左大臣一条実経らは同母弟にあたる。

経歴

1229年(寛喜元年)入内、11月3日叙従三位、同23日女御となり、翌1230年(寛喜2年)2月16日中宮となる。1231年(寛喜3年)2月12日第一皇子秀仁親王(四条天皇)、翌年第四皇女皞子内親王を産む。1233年(貞永2年)4月3日院号宣下。同年(天福元年)9月18日、皇子を死産し自身も命を落とした。短い生涯の中で竴子自身は特に和歌の作品は残していないが、出仕していた女房には「己が音の少将」として知られる藻壁門院少将や藻壁門院但馬、更には藤原定家の娘民部卿典侍等の有力な歌人がおり、和歌サロンとしての存在感を示していた。


逸話

  • 竴子はその美貌により後堀河院の寵が深かった(「后容貌姝艷 寵遇無比」)とされる。竴子が「いひしらぬほどの美人」であったのに対して、その妹全子も「ためしなき程の美人」であったため尚侍に任じられたという。
  • 竴子が入内するにあたり、当代一流の歌人達に歌の詠進が依頼され、屏風が製作された(『寛喜元年女御入内屏風』)。家隆の一首は『百人一首』にも採られている。

                              正三位家隆
風そよくならの小川の夕暮は みそきそ夏のしるしなりける

— 『新勅撰和歌集』 巻第三 夏歌
  • 女院号「藻璧門院」は、大内裏宮城十二門の内、西面の藻壁門(西中御門)から採られているが、「壁」字の「土」を「玉」に替えた「璧」字が用いられている。このため、院号の文字は「藻門院」が正しいが、「藻門院」と書かれることが多い。1200年(正治2年)に院号宣下された後鳥羽天皇中宮任子の女院号選定の際、一度は「藻壁門院」が提案されたが、父九条兼実が不吉な名であると反対し、「宜秋門院」に改められたという。竴子の院号選定にあたっては、二条定高や堀川具実らが「玉」を用いた「藻璧門院」を主張した。宜秋門院の院号選定の経緯を熟知していた藤原定家は、この決定に「殊以存外」「驚而可驚」と驚き呆れる一方、この件について宜秋門院が疑問を抱いた話を書き留め、親の庭訓を忘れない「賢貞之御本性」と賞賛している。
  • 定家はその日記『明月記』において、悪天候の中で難産の情報を耳にしての不安、自他の悲嘆や周章の様子等と共に、医師兼僧侶として現場に立ち会った興心房から、出産と死亡の詳しい経過を聞いて記録している。当時の人々の意識の上で二重の穢れであるこのような場面の具体的な記録は珍しい。9月13日から容態が変化し(出産予定は翌月だったらしい)、「物の怪」に苦しめられていると周囲が憂慮するような状態を繰り返した。17日の午後から強い陣痛が周期的に見られ、18日に至って皇子を産むが逆子の状態で既に死亡していた。この記録により、父道家や弟良実が出産現場に立ち会い、産婦の腰を支えるなど助産を行っていたことがわかる。そして産後も胎盤が降りず、体力を消耗しきった竴子が危篤状態に陥ったため、急遽興心房を導師として授戒が行われた。言葉を発する力も残ってはいなかったが、導師の言葉に頷きつつ、第七戒に至って絶命したという。事切れる直前に戒を授かったという報告を聞いて、定家は「今此の如く聞けば、此の如き急難の中、善人の御終歟」と、せめてもの慰めとしている。遺体には女房が衣を掛け、別室に移動して仰臥させて、髪を剃り袈裟を着せ念珠を持たせて出家姿を整えた。同月二十四日夜に入棺、三十日に東山御堂そばに埋葬された。
  • 竴子の死後まもない21日に定家の息子である藤原為家が参内したところ、後堀河院はひたすら泣き続けるばかりで「無御言語 而御落涙之間又咽涙」という有様だったという。元来病弱だった後堀河院は、傷心に沈む中ますます衰弱した。翌年、法勝寺の法華八講に出席した後堀河院と摂政教実は、大塔の三層に生前の姿そのままの竴子を見たが、他の者には見えなかった。この年の6月に仲恭天皇、8月に後堀河院、翌年3月には教実と、竴子の後を追うように次々と関係者が没したが、その原因として、隠岐に配流された後鳥羽院の生霊や、天台座主就任を果たせず道家を怨んで死んだ十楽院僧正仁慶の怨念の関与が噂された。
  • 死後しばらく経った頃、竴子がある人の夢に現れて歌を詠んだ。

まよひこしわかこころからにこりけり すめはすみける池の水かな
この世にてあひみんことはしかすかに はかなきゆめをたのむはかりそ

— 『明月記』 天福元年十一月十一日条
  • 滋賀県犬上郡多賀町に存在した中世寺院敏満寺の一院「西福院」は、藻璧門院の御願寺として創建され、その近くに営まれた石仏谷墓地は、藻璧門院の供養塔や墓所を原型として拡大していったのではないかと推測されている。


    脚注

    注釈

    出典

    参考文献

    • 滝沢優子 「『明月記』藻璧門院崩御記事が示すもの」 『同志社国文学』 62,96-106 2005年3月 同志社大学国文学会
    • 細川涼一 「古代・中世の敏満寺と石仏谷中世墓地」 『敏満寺は中世都市か-戦国近江における寺と墓-』 37-40 2006年8月31日 多賀町教育委員会 ISBN 4-88325-302-3

    関連項目

    • 明月記
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