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Minister from the second half of the Kamakura period
Konoe Kanenori
The basics
Quick Facts
Intro
Minister from the second half of the Kamakura period
was
Gender
Male
Birth
Age
69 years
Family
Father:
Spouse:
The details (from wikipedia)
Biography
近衛 兼教(このえ かねのり、旧字体:近󠄁衞 兼󠄁敎)は、鎌倉時代後半の公卿。関白左大臣・近衛基平の子。官位は従一位・准大臣。猪熊一位入道と号する。母は岡屋関白太政大臣・近衛兼経の女、すなわち基平の異母妹あるいは異母姉である。
背景
兼教が誕生した頃、摂関家は近衞家と九条家からそれぞれ鷹司家、二条家、一条家が分立し始めた時代である。この摂関家の分立は近衞家と九条家それぞれの当主が夭折し、相続に問題が生じていたことが一因であるとする説がある。近衛家では兼教が誕生した翌文永5年(1268年)11月19日に、兼教の父・基平が弱冠23歳で薨去している。
経歴
以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。
- 弘安3年(1280年)7月3日に元服、同日従五位上に叙され禁色も許される。同月11日には右近衛少将に、10月1日には正五位下、12月7日には右近衛中将に任官される。
- 弘安4年(1281年)1月5日には従四位下、3月26日には従四位上、7月29日には正四位下。
- 弘安6年(1283年)1月5日に従三位となり公卿に列し、同日中将は元の如し。2月28日には美作権守を兼ねる。
- 弘安7年(1284年)1月13日には正三位に叙される。
- 弘安10年(1287年)1月13日に参議となる。右中将は元の如し。同年8月には一門の鷹司兼平が関白を、鷹司基忠が太政大臣をそれぞれ辞している。
- 正応元年(1288年)2月10日には伊予権守を兼任、3月8日には従二位、7月21日には権中納言となり右衛門督を兼ね12月20日には左衛門督に転じる。
- 正応2年(1289年)1月5日には正二位となる。前年右大臣となっていた異母兄・家基は4月13日に関白となっている。
- 正応3年(1290年)1月13日には権大納言に転じ同月17日には帯剣を許される。
- 永仁4年(1296年)6月19日に兄・家基が二度目の関白在任中に薨去する。
- 正安元年(1299年)12月17日、権大納言を辞任す。
- 正安2年(1300年) 3月6日に権大納言に還任するが4月7日に再び辞する。
- 延慶3年(1310年)4月7日に従一位に叙せられ、同月28日には大臣に准じて朝参するよう宣下がある。なお、兼教が出家したのは元亨3年(1323年)ではないかと推測される。
- 延元元年/建武3年(1336年)9月2日、薨去。
系譜
- 父:近衞基平(1246-1268)
- 母:近衞兼経の娘
- 妻:鷹司基忠の娘
- 妻:近衛家基の娘
兼教の和歌
『玉葉和歌集』に次の和歌が作者名「従一位兼教」として入首している。兼教の心境をうかがうことができ興味深い。 なお、「近衛関白」とは兄近衛家基、「歓喜苑前摂政」とは正安3年(1301年)に薨去した一門の鷹司兼忠を指す。
- 鳴く鹿の聲のしるべもかひぞなき道踏みまがふ春日野の原 (秋歌上)
籠りゐて後五月五日菖蒲の根につけて大納言三位に遣はしける
- ねを添へて猶こそ忍べあやめ草忘れぬつまの今日の昔を (雑歌一)
近衛関白かくれて後籠りゐて年久しくなり侍りける頃、花の歌よみ侍りける中に
- 春しらぬ憂き身もかなし古につらねし枝の花に別れて (雑歌四)
歓喜苑前摂政かくれ侍りける秋、近衛関白の事にうち続きまたかかる事の哀れさへなど申すとて
- 見し夢のおなじ憂世のたぐひなき覚めぬ哀れぞいとど悲しき (雑歌四)
脚注
- ^ この女性の母について詳しい事は2014年(平成26年)現在、詳細不明。
- ^ 『公卿補任』文永5年の項
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