Kazuo Tsuchiya
Quick Facts
Biography
土谷 和夫(つちや かずお、1942年4月3日 - 没年不明)は、日本の陸上競技(長距離走)選手。実業団を経て日本大学に入学し、1960年代にトラック競技やロードレースで活躍。のちにプロ野球のトレーニングコーチを務めた。
経歴
宮崎県出身。宮崎商業高校から八幡製鉄に所属し、1962年・1963年には全日本実業団駅伝に出場し区間賞を獲得している。日本大学に入学。
1964年4月に毎日マラソン(日本選手権大会・1964年東京オリンピック代表選考会を兼ね、オリンピックのマラソンコースで行われた)に出場、4位入賞。2位の円谷幸吉はマラソンを始めたばかりであり、4位の土谷がマラソン代表に選出される可能性もあったが、最終的には着順通り3人が代表選手に選ばれた。同年5月に日本学生陸上競技対校選手権大会5000m走・10000走で優勝。7月には日本陸上競技選手権大会男子10000m走で優勝。8月の五輪候補記録会10000m走で日本学生記録を残した(29分23秒2)。10000m走の代表に選出されたが、円谷に急遽エントリーが変更されたという(円谷幸吉参照)。このため、土谷は1964年東京オリンピックの日本代表に名を連ねているが、大会には出場していない。土谷は晩年まで東京オリンピックへの思いを口にしていたという。
1965年には箱根駅伝2区に出場し区間賞。1966年には箱根駅伝10区を走り区間賞。1966年には日本学生対校選手権・日本陸上競技選手権大会の双方で5000m走・10000走の2種目優勝を遂げた。1966年には実業団・学生対抗陸上競技大会で10000m走の日本学生記録を更新した(29分05秒2)。また、1966年にはアジア競技大会(バンコク)に出場し、5000m走で2位、10000m走で優勝。
1967年・1968年にもは箱根駅伝10区を走って区間賞を獲得し、日本大学の2連覇に貢献した。
その後、中央学院大学講師を経てヤクルト陸上競技部監督を歴任後にプロ野球の西武ライオンズやヤクルトスワローズでトレーニングコーチを務めた。西武ライオンズのトレーニングコーチには根本陸夫に招聘されて1981年から就任、長距離と短距離をうまく組み入れたトレーニングを行ったという。
脚注
注釈
出典
- ^ 財団法人日本体育協会スポーツ科学委員会高所トレーニング研究小委員会. “乗鞍高所トレーニング研究報告書”. 2021年7月26日閲覧。
- ^ 武田薫 (2019年10月10日). “マラソン五輪代表選考会「名誉と利権」でもめた人間臭い歴史”. 週刊朝日. 2021年7月23日閲覧。
- ^ “びわこ毎日マラソンの記録 第19回大会”.毎日新聞社. 2021年7月23日閲覧。
- ^ '84プロ野球12球団全選手百科名鑑 日本スポーツ出版社
- ^ 末継智章 (2019年9月14日). “1964年の“MGC”はだしの激走も五輪代表選考会の真実”. 西日本スポーツ. 2021年7月27日閲覧。
- ^ 近藤雄二 (2021年5月17日). “55年ぶりの快挙に数秒差…駒沢大の箱根駅伝ランナー・田沢廉と鈴木芽吹、日本選手権1万メートル激走の価値”. 読売新聞. https://www.yomiuri.co.jp/hakone-ekiden/news/20210517-OYT1T50131/ 2021年7月27日閲覧。
- ^ “日本学生記録の変遷 男子10000m”.日本学生陸上競技連合. 2021年7月23日閲覧。
- ^ “日本代表選手団 記録検索 「土谷、和夫」の検索結果”.日本オリンピック委員会. 2021年7月23日閲覧。
- ^ “日大が2年ぶり優勝/写真で見る第43回箱根駅伝”.日刊スポーツ. 2021年7月23日閲覧。
- ^ “日大が2年連続優勝/写真で見る第44回箱根駅伝”.日刊スポーツ. 2021年7月23日閲覧。
- ^ “プロ野球在籍者名簿 つ”.日本野球機構. 2021年7月27日閲覧。
- ^ 高橋安幸 (2021年7月26日). “根本陸夫が画策したトレードの産物。西武・伊東勤に「野村イズム」が注入された”. Web Sportiva. 2021年7月27日閲覧。
関連項目
- 1964年東京オリンピックの日本選手団
- 浅井浄 - 1964年東京オリンピック短距離走代表選手で、阪急ブレーブスの走塁コーチを務めた。