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Biography
慈雲(じうん、享保3年7月28日(1718年8月24日) - 文化元年12月22日(1805年1月22日))は江戸時代後期の真言宗の僧侶。
戒律を重視し「正法律」(真言律)を提唱した。雲伝神道の開祖。能書家としても知られる。俗姓は上月氏。法諱は飲光(おんこう)。号は百不知童子、葛城山人、雙龍叟など。慈雲尊者と尊称される。
生涯
大坂中之島(現在の大阪市北区)の高松藩蔵屋敷で上月安範の子として生まれ、父の遺言により13歳の時に摂津の法楽寺(大阪市東住吉区)で出家、同寺の住職・忍網貞紀に密教と梵語(サンスクリット)を学ぶ。18歳の時に、忍綱の命で京都に行き、伊藤東涯に古学派の儒学を学ぶ。翌年に奈良に遊学し、顕教、密教、神道と宗派を問わず学び、河内の野中寺(羽曳野市)で秀厳の教えを受けて、戒律の研究を始め、1738年(元文3年)、具足戒を受けた。翌年には忍網から灌頂を受け、法楽寺の住職となったが、2年後に住職を同門に譲った。その後、信濃に曹洞宗の僧侶の大梅を訪ね、禅も修行した。
1744年(延享元年)、河内の長栄寺(東大阪市)を再興して住職となり、初めて戒律の講義を行なったのを皮切りに、高野山や近畿の各地で修行と講演を続ける。
1758年(宝暦8年)から生駒山中の雙龍庵という草庵に隠居して研究に専念し、千巻にも及ぶ梵語研究の大著『梵学津梁』を著す。その内容は、密教で行われてきた梵字の呪術的解釈を排し、梵語の文法を研究して、梵文で書かれた仏教教典の原典の内容を正しく読解しようとするものであった。この『梵学津梁』の内容は、明治時代に来日したフランス人のサンスクリット研究家シルヴァン・レヴィから高く評価されたほどであった。
1775年(安永4年)、『十善法語』を著す。1776年(安永5年)に河内の高貴寺(南河内郡河南町)に入寺した。
大和郡山藩主・柳沢保光の支援を受け、高貴寺の堂舎を整備し、この寺を正法律の本山と定めた。
保光は慈雲に深く帰依し、慈雲の死後に保光が剃髪した際には、毛髪を高貴寺にある慈雲の墓のそばに埋めたほどであったと伝えられる。
晩年に、独自の神道説を唱え、磐船神社を根本道場とした。慈雲の提唱した神道は後に雲伝神道(うんでんしんとう)または葛城神道(かつらぎしんとう)と呼ばれた。
1804年、京都の阿弥陀寺でその生涯を終えた。遺体は高貴寺に運ばれ埋葬された。
雲伝神道
慈雲が主張した雲伝神道は、日本の神道は密教に基づく曼荼羅観に一致するとして、専ら密教の教義によって解釈された神道の一派である。葛城神道ともいう。
著書
研究書籍
- 三浦康広 『慈雲尊者 人と芸術』二玄社、1980年、ISBN 978-4544010237
- 『真実の人慈雲尊者 釈尊ひとすじの生涯とその教え』、慈雲尊者二百回遠忌の会編、論集、大法輪閣、2004年、ISBN 978-4804612058。
- 三浦康広編・解説『慈雲尊者書』二玄社、2009年、ISBN 978-4544013955
- 小金丸泰仙 『慈雲尊者に学ぶ『正法眼蔵』 「現成公案」巻』大法輪閣、2009年、ISBN 978-4804612928
- 秋山学 『律から密へ 晩年の慈雲尊者』、春風社、2018年、ISBN 978-4861106002
- 小金丸泰仙校注 『十善法語』、大法輪閣、改訂版2018年、ISBN 9784804614045
関連項目
- 雲伝神道
- 両部神道
- 釈雲照
注・出典
- ^ 高貴寺には慈雲が使った特太の筆が発見、修復されている。「高僧・慈雲愛用 特太筆を修復 生誕300年で」『日本経済新聞』夕刊2018年11月5日掲載(社会・スポーツ面)の共同通信配信記事。2018年11月7日閲覧。
- ^ 総合仏教大辞典編集委員会(編)『総合仏教大辞典』法蔵館、1988年1月、98頁。
- ^ ハセホウシュウ、1869 - 1948年、京都専門学校(1949年から種智院大学)