Isamu Teranishi
Quick Facts
Biography
寺西 勇(てらにし いさむ、1946年1月30日 - )は、富山県射水郡(現・射水市)出身で立浪部屋所属の元大相撲力士、元プロレスラー。本名は、寺西等(てらにし ひとし)。大相撲時代の四股名は寺西(てらにし)、最高位は三段目1枚目。
来歴
大相撲の立浪部屋に入門し、1963年5月場所に本名の寺西の四股名で初土俵を踏んだ。しかし伸び悩み、わずか入門3年後の1966年5月場所限りで廃業した。大相撲廃業後は、1966年に同門の永源遙とともに豊登道春率いる東京プロレスに入ってプロレスラーに転向。同年10月21日、団体旗揚げ戦においてデビュー(相手は竹下民夫)。団体崩壊後は国際プロレスに移籍し、当時最高のテクニシャンであったエドワード・カーペンティアと当たる機会に恵まれ、自らのスタイルの基礎を築く。
1975年3月13日、茨城県境町体育館において稲妻二郎を破り、IWAミッドヘビー級(現在で言うジュニアヘビー級)王座を獲得し、3度防衛。防衛相手の中には、後のトップレスラー、リック・マーテルも含まれている。またその技術が評価され、1976年にはプロレス大賞・技能賞を受賞している。同年5月8日には、大宮スケートセンターにてジ・インフェルノと初の金網デスマッチを行っている。しかし国際も1981年に崩壊し、ラッシャー木村・アニマル浜口とともに「国際軍団」を結成して新日本プロレスに殴りこみ。1983~4年頃は浜口とともに長州力の維新軍に参加し、小林邦昭と共にジュニアヘビー級戦線で活躍する。1983年8月、維新軍在籍時に初代タイガーマスクの新日マット最後の対戦相手となる(タイガーマスクの保持するNWA世界ジュニアヘビー王座への挑戦)。そのままジャパンプロレスにも合流する。1985年7月、浜口とアジアタッグ王座を獲得。
1987年にジャパンが崩壊した後は谷津嘉章らと共に全日本プロレスの一員となったが、1992年怪我により一旦引退。全日のスタッフとして裏方の仕事(会場でのパンフレット販売等)に従事するが、1シリーズで公の場から姿を消す。1994年、ジャパン時代の同僚谷津嘉章のSPWFで現役復帰、その後新日本にも参戦した。現在はプロレス界を離れて解体関係の仕事をしている。因みに本人は「勇」という名前がいたく気に入っており、実子に勇と名付けている。
2002年の新日本プロレス創立30周年記念大会(東京ドーム)では、アニマル浜口らと共に来賓として会場で観戦した。
プロレス好きであるシンガーソングライターの石川優子は、「好きなプロレスラーは」の質問に迷わず「寺西勇さん」と言っていた。
エピソード
- 大相撲出身者にありがちなパワー一辺倒ではなく、素早い動きや連発のドロップキックを駆使するスタイルを貫き、マイティ井上らに影響を与えた。現在ジュニアヘビー級の選手がよくやる、ショルダースルーを食らっても足から着地して反撃するムーブを、日本で最初に見せたのも寺西である。また、こういったスタイルを得意にする選手の多くはメキシコなどで修行を積んでいるものだが、寺西には海外修行の経験がない。
- 国際プロレス時代から白いトランクス(ショートタイツ)を身につけ、リングシューズも白く白装束であった。また相手を持ち上げ、相手をうつ伏せの状態で自分の膝に落とし相手の腹を打ち付ける「ストマックブロック」もよく使う技であった。
- 全日本プロレス時代の末期は若手選手とのシングルマッチも多く組まれた。その際はバックドロップをフィニッシュホールドに多用し前座の壁として立ちはだかり、若手の育成に貢献した。
- 練習しているようには見えない体だが、練習の虫でシュートが強い。
- 「俺は自分の役割を分かっている。俺はやられ役で俺が勝ってもしょうがない」と自分のポジションを理解してプロレスをやっていた。
- 1973年10月6日、高岡市民体育館で行われた第5回IWAワールド・シリーズで国際プロレスのエースでIWA世界ヘビー級王者のストロング小林から逆さ押さえ込みでフォール勝ちしている。小林は予選落ちとなり、ラッシャー木村が優勝した。
- 1979年7月に初来日したダイナマイト・キッドの来日第一戦の相手を務めている。1980年1月にキッドの国際プロレスへの再来日が予定され、シリーズ第2戦で対戦する予定だったが、キッドが新日本プロレスへ移籍したため、国際プロレスにおける再戦は実現しなかった。
- 阿修羅・原のデビュー戦の相手を勤めたが、「甘やかしすぎてもいけないし潰してしまってもいけない難しい試合だった」と語っている。
- 国際プロレスが新日本プロレスと対抗戦を始めた際の第一戦が寺西・アニマル浜口 vs. 長州力・木戸修戦であり、両団体とも何かあった時に対処できるシュートの強い選手を出してきている。
- 自己主張をしないタイプに見えるが、国際プロレス崩壊の際は「予定調和なプロレスの全日本よりも、やりたい放題できる新日本の方がいい」とラッシャー木村、アニマル浜口と共に新日本に参戦し、国際プロレスでは5番手、6番手ぐらいのポジションであったのに猪木相手に蔵前国技館でメインを張り、新日本のスター選手である藤波辰爾、木村健悟、長州力、タイガーマスクらと互角以上の闘いを見せてその実力が再認識された。
- 国際プロレス最後のシリーズのポスターには「寺西修」と誤記されている。
タイトル履歴
- IWA世界ミッドヘビー級王座
- アジアタッグ王座:2回(パートナーはアニマル浜口、保永昇男)
入場テーマ曲
- 少林寺 / スネーク・アンド・クレイン・ファイティング(新日本プロレス時代)
- 方世平のうらぎり / キース・モリソン(新日本プロレス時代)
- Another Man / One 2 Many(「ALIEN WATER KISS」/STEVE VAI との2曲編集) (全日本プロレス時代)
- BORG GET ON! / 飛澤宏元(SPWF時代)
脚注
外部リンク
- 寺西勇 - 相撲レファレンス