peoplepill id: hatao-hidetaka
HH
1 views today
1 views this week
The basics

Quick Facts

Work field
Gender
Male
Birth
The details (from wikipedia)

Biography

波多野 秀香(はたの ひでたか)は、安土桃山時代の武将。波多野秀治の弟。大路城主。二階堂家の家督を継ぎ、二階堂秀香とも名乗った。

生涯

丹波酒井氏の一族である油井城城主、酒井佐渡守重貞の次男として生まれる。酒井重貞は波多野氏の重臣であった。その後、波多野元秀の養子として迎えられ、秀治の義弟となったとされる。

天正6年(1578年)3月より、波多野氏は居城・八上城に籠城し、織田氏の家臣・明智光秀と戦う(八上城合戦)。1年以上に及ぶ攻防ののち、秀香は兄の秀治、秀尚と共に捕らえられ、天正7年(1579年)6月8日、安土で磔に処された。

秀香については、秀治・秀尚が捕らえられた後、八上城に籠城したとする伝承がある。これによると、天正7年(1579年)5月5日に明智方から和議の申し出がなされ、6月1日に明智光秀の母を人質として預かると、秀治・秀尚は明智方の本目城に赴く。しかしそこで捕らえられ、安土に送られて処刑された。秀香はそれを受け八上城にて籠城の評議を行い、八上城内は万事秀香の采配に従うよう評議で決定する。和議違約により光秀の母を磔殺の刑に処し、明智左近ら付き人の武士3人は切腹、腰元5人は光秀の母の亡骸と共に明智方に送還した。その後、天正7年(1579年)8月9日、八上城方は打って出て戦い、秀香は本丸に火を放ち自刃したという。享年21歳。

また、秀香にはこの時3歳の子・秀朝(久左衛門、幼名藤八)がおり、叔父・酒井彦右衛門に託されたとされる。

脚注

注釈

  1. ^ 八上城落城の際に捕らえられ磔刑に処されたのは「波多野兄弟三人」であり、三兄弟であれば秀治・秀尚・秀香の三人であると推定される。
  2. ^ 『丹波志』には、秀香から小嶋次郎四郎に宛てられた感状が記載され、秀香は秀治の最期を見届けて辞世の句を預かったとされている。しかし秀香は秀治らとともに磔にされたとみられるため、この感状については疑問視されている。
  3. ^ これらの伝承は『籾井家日記』などに基づいている。また6月1日に落城した八上城には明智光秀の兵が入ったはずで、波多野方が再入城したとは考えられない。

出典

  1. ^ 細見 1988, pp. 65–69; 丹南町史編纂委員会 1994, pp. 591–599.
  2. ^ 『信長公記』、『兼見卿記』。
  3. ^ 細見 1988, pp. 68–69; 丹南町史編纂委員会 1994, pp. 597–598.
  4. ^ (天正7年)6月2日付「二階堂(波多野)秀香感状」。
  5. ^ 丹南町史編纂委員会 1994, pp. 597–598.
  6. ^ 奥田 1958, p. 210.
  7. ^ 奥田 1958, pp. 210–212.
  8. ^ 奥田 1958, p. 212.
  9. ^ 奥田 1958, p. 214.
  10. ^ 奥田 1958, pp. 210–211.
  11. ^ 細見 1988, p. 69.

関連項目

  • 黒井城の戦い
The contents of this page are sourced from Wikipedia article. The contents are available under the CC BY-SA 4.0 license.
Lists
Hatao Hidetaka is in following lists
comments so far.
Comments
From our partners
Sponsored
Hatao Hidetaka
arrow-left arrow-right instagram whatsapp myspace quora soundcloud spotify tumblr vk website youtube pandora tunein iheart itunes