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FH
Japan
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Fujiyama Harukazu
Japanese linguist

Fujiyama Harukazu

The basics

Quick Facts

Intro
Japanese linguist
Places
Gender
Male
Place of death
Tokyo, Japan
Age
56 years
Employers
University of Tokyo
Hongō, Bunkyo, Japan
Waseda University
Tokyo, Japan
The details (from wikipedia)

Biography

藤山 治一(ふじやま はるかず、文久元年3月2日(1861年4月11日) - 1917年5月13日)は、肥前国 佐嘉郡(現在の佐賀県 佐賀市)出身の佐賀藩士。近代日本のドイツ語学者。

生涯

佐賀藩士族、藤山家に生まれる。父は藤山治明、母は絹で、絹は後に鍋島朗子の乳母を務めた。1873年に旧佐賀藩が費用を負担して国内留学生を50名送り出す事になり、これに選ばれて治明とともに東京に移る。有馬学校で英語を学んだ後、1878年2月に駒場農学校の獣医科に入って首席となっている。東京での生活費は絹が負担しており、官費生となるために農学校にすすんだという。在学中は毎週日曜に鍋島邸に通い、鍋島直映の相手を務めた。

1880年2月に農学校を卒業し、同年4月から鍋島家の給費生として佐野常実(佐野常民の息子)、牧亮四郎とともにドイツに留学した。ベルリン大学への入学までドイツ語を学んでいたが、イェーナ大学への入学後に佐野が病を得たため見舞いに行き、そのまま亡くなったため葬儀を手配している。同年11月17日にベルリン大学に入り農業経済学を学んだが、動植物学に興味がわき1881年12月22日に退学してボン大学に移った。この事を知ったドイツ駐在公使の青木周蔵に帰国を命じられたが、旅費600円を受け取ってそのままボン大学に通い続け、それが知られて鍋島家からの学費支給が止められている。留学生から借金を重ねて自殺を考えるほど困窮し、見かねた書記官の丹羽龍之助が日本に連絡して絹ら旅費が送られ、1883年10月にドイツを発って帰国することができた。

1884年3月に東京外国語学校の御用係となり、同年12月には農商務省と東京山林学校の御用係になっている。同じ頃に獨逸学協会学校の動植物学教員を委嘱され、さらに1885年には東京大学予備門の教師に就いた。1887年に陸軍教授として陸軍大学校に赴任すると、メッケル達ドイツ人教官の通訳を遠藤慎司らとともに務めている。1889年には日本人による初めての本格的な シーボルト論となる論文を『Von West Nach Ost』に発表した。参謀旅行に14回以上参加した他、1894年には日清戦争に従軍するなど通訳としても精力的に活動した。

1895年に東京専門学校のドイツ語教授となり、1896年から1897年にかけて2回目のドイツ留学をした。1899年には同僚の高田善次郎とともに『独和兵語辞書』を編纂した。1902年に早稲田大学に改称されると、その初代ドイツ語教授となっている。また、翻訳を担当したコルマール・フォン・デア・ゴルツの『戦争及統帥』が1906年に出版された。

1917年5月13日に急性腹膜炎のため逝去し、青山霊園に埋葬された。

脚注

The contents of this page are sourced from Wikipedia article. The contents are available under the CC BY-SA 4.0 license.
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