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Fujiwara no Takatori

Fujiwara no Takatori

The basics

Quick Facts

Gender
Male
Family
Siblings:
Fujiwara no Sueshige Fujiwara no Washitori
The details (from wikipedia)

Biography

藤原 鷹取(ふじわら の たかとり)は、奈良時代の貴族。藤原北家、左大臣・藤原魚名の子。官位は正四位下・左京大夫。

経歴

光仁朝初頭の宝亀2年(771年)従五位下に昇叙し、翌宝亀3年(772年)中務少輔に任ぜられる。左京亮を経て、宝亀6年(775年)遣唐副使に任ぜられる。しかし、大使の佐伯今毛人が病と称し渡海せず、鷹取は大伴益立と共に副使を更迭されてしまい、結局宝亀8年(777年)に小野石根が持節副使として渡唐した。なお、宝亀9年(778年)にはこの遣唐使の帰国に伴い来日した唐使の慰問を行っている。

宝亀8年(777年)に右大臣・藤原良継が薨去し、大納言である父・魚名が朝廷の中心的存在となる。鷹取は魚名の威光を背景に、宝亀9年(778年)従五位上、宝亀10年(779年)正五位上、宝亀11年(780年)従四位下と光仁朝末にかけて急速に昇進すると共に、左少弁・左中弁と弁官を歴任した。

天応元年(781年)4月に桓武天皇の即位に伴い従四位上、11月には正四位下と桓武朝でも昇進を続け、造宮卿・左京大夫・左兵衛督・侍従・中宮大夫などを務める。しかし、天応2年(782年)父・魚名が左大臣を罷免されると兄弟と共に連座し、鷹取は石見介に左遷される。翌延暦2年(783年)7月に魚名が薨ずる直前に入京を許され、延暦3年(784年)4月に再び左京大夫に任ぜられるが、同年5月10日卒去。最終官位は左京大夫正四位下。

官歴

『続日本紀』による。

  • 時期不詳:正六位上
  • 宝亀2年(771年) 3月7日:従五位下
  • 宝亀3年(772年) 4月20日:中務少輔
  • 宝亀5年(774年) 9月4日:左京亮
  • 宝亀6年(775年) 6月19日:遣唐副使
  • 宝亀9年(778年) 正月16日:従五位上。11月19日:見左少弁。12月28日:左中弁
  • 宝亀10年(779年) 10月20日:正五位下。10月21日:正五位上
  • 宝亀11年(780年) 10月13日:従四位下
  • 天応元年(781年) 4月15日:従四位上。5月7日:造宮卿。5月25日:兼左京大夫。7月10日:兼左兵衛督。11月16日:正四位下
  • 天応2年(782年) 5月17日:中宮大夫、侍従越前守如元。6月14日:石見介
  • 延暦2年(783年) 7月23日:許入京
  • 延暦3年(784年) 4月2日:左京大夫。5月10日:卒去(左京大夫正四位下)

系譜

注記のないものは『尊卑分脈』による。

  • 父:藤原魚名
  • 母:藤原宇合の娘
  • 生母不詳の子女
    • 男子:藤原真雄(767-811)
    • 男子:藤原星雄

脚注

  1. ^ 『続日本紀』宝亀9年11月19日条
  2. ^ 『日本後紀』弘仁2年7月8日条

出典

  • 宇治谷孟『続日本紀 (下)』講談社学術文庫、1995年
  • 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年
The contents of this page are sourced from Wikipedia article. The contents are available under the CC BY-SA 4.0 license.
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