Fujiwara no Sanenori
Quick Facts
Biography
藤原 実教(ふじわら の さねのり)は、藤原北家魚名流、中納言・藤原家成の六男。
経歴
参議・藤原公親の猶子となる。久寿3年(1156年)に従五位下に叙爵。仁安3年(1168年)従五位上・近江守に叙任され、嘉応3年(1171年)に右衛門佐に任ぜられる。
承安2年(1172年)、左近衛権少将に任ぜられ、信濃守を兼ねる。承安3年(1173年)正五位下、承安4年(1174年)従四位下に叙される。治承元年(1177年)従四位上に昇叙され、齋院長官に任ぜられる。寿永2年(1183年)正四位下・右近衛中将に叙任されて文治2年(1186年)蔵人頭に補任される。
文治4年(1188年)に参議となり公卿に列す。文治5年(1189年)従三位・播磨権守に叙任。さらに建久元年(1190年)には正三位・左近衛中将に叙任され、左兵衛督・右衛門督・皇太后宮大夫を歴任。正治元年(1199年)正二位・権中納言に進む。建仁2年(1202年)には中納言に転じ、承元2年(1208年)按察使を兼任する。
建暦2年(1212年)に出家。以後も処々に出仕を続けたという。嘉禄3年(1227年)3月26日に病を発し、4月3日の朝に薨去した。享年78。
人物
糸竹音曲に携わったという。なお実教は、下記の史料から漢字を知らなかった可能性が高い。臨時祭の日程や使者を決めて定文にそれらを書いて奏上する臨時祭定で執筆役を務めた際、漢字を知らないのでその場では書くふりをして、懐中に準備したものと取り替えたという。実教が没した翌日、藤原定家が実教の評を『明月記』に書いているが、「実教は漢字を書かなかったけれども、管弦の道に秀でていただけでなく、存命中は忠節を怠らなかった。公事を習って口頭で巧みに説いた。出家してもなお出仕し、人との付き合いもやめなかった。事を行うにあたって古老の中心的存在であった」と述べている。一方、実教は記憶力でこれを補っていたらしく、『古事談』(六―二十八)では承元4年(1210年)に賀茂社で臨時神楽を行おうとした時、実教は神楽歌「宮人」が歌われた事例を2度で、いつ、どこで、誰が唱えたかを具体的に語ったという。
官歴
※以下、『公卿補任』の記載に従う。
- 久寿3年(1156年)正月6日:従五位下に叙す(統子内親王給)。
- 仁安3年(1168年)正月6日:従五位上に叙す。12月13日:近江守に任ず(下名次)。
- 嘉応3年(1171年)正月18日:右衛門佐を兼ぬ。
- 承安2年(1172年)正月26日:左近衛権少将に任ず。閏12月7日:信濃守に遷る。少將如元。
- 承安3年(1173年)正月5日:正五位下に叙す(院当年御給)。
- 承安4年(1174年)正月11日:従四位下に叙す(朝覲行幸院御給)。
- 治承元年(1177年)12月17日:従四位上に叙す(蓮華王院供養日。行幸賞。院御給)。
- 治承4年(1180年)4月1日:斎院長官に任ず。
- 寿永2年(1183年)正月8日:正四位下に叙す(臨時)。正月14日:長官を辞す。4月9日:右近権中将に転ず。
- 文治2年(1186年)12月15日:蔵人頭に補す。
- 文治4年(1188年)10月14日:参議に任ず。
- 文治5年(1189年)正月5日:従三位に叙す。正月18日:播磨権守を兼ぬ。
- 建久元年(1190年)10月27日:左近衛中将に遷る。12月14日:正三位に叙す(平野大原野行幸行事賞)。
- 建久4年(1193年)12月9日:左兵衛督に遷り、参議を去る。12月29日:本座を聴す。
- 建久8年(1197年)正月30日:右衛門督を兼ぬ。4月22日:従二位に叙す(行幸七条院賞)。
- 建久9年(1198年)3月5日:皇后宮権大夫を兼ぬ。
- 正治元年(1199年)6月22日:正二位に叙し、権中納言に任ず。
- 正治3年(1201年)正月29日:皇后宮大夫に転ず。
- 建仁2年(1202年)10月20日:中納言に転ず。
- 元久元年(1204年)4月12日:辞退。5月15日:本座を聴す。
- 元久3年(1206年)9月2日:大夫を止む(院號)。
- 承元2年(1208年)7月9日:按察使を兼ぬ。
- 建暦2年(1212年)12月19日:出家す。
系譜
- 父:藤原家成
- 母:藤原経忠の娘
- 妻:藤原光子(?-1203) - 藤原光隆の娘
- 次男:藤原公頼(1172-1250)
- 男子:藤原公基
- 三男:藤原公長(1184-?)
- 男子:藤原公広(?-?)
- 妻:不詳
- 男子:藤原宗明(?-?)
- 女子:藤原範能室
- 女子:中納言室
- 女子:藤原兼光室
- 養子:藤原教成(1177-1239) - 実は平業房の子。