Flora Lydia Best Harris
Quick Facts
Biography
フローラ・リディア・ベスト・ハリス(英: Flora Lydia Best Harris、1850年3月14日 - 1909年9月7日)は、アメリカ合衆国のメソジスト派の宣教師、詩人。明治期の日本での伝道において、女子教育機関の必要性を訴え、北海道函館市の遺愛学院(遺愛女子中学校・高等学校)設立の基礎を築き上げた。夫は同じく宣教師のメリマン・ハリス。
経歴
誕生 - 結婚、日本へ
ペンシルベニア州ミードビルで誕生した。祖父の代より熱心なキリスト教徒の家庭であり、嬰児の頃に受洗した。幼少時より文学を愛し、特にヘンリー・ワズワース・ロングフェローの詩を愛好した。
アービング女子大学とアレゲニー大学の卒業を経て、1873年10月にメリマン・ハリスと結婚。ハリスが宣教師として日本派遣を任命され、夫妻共に宣教師として日本へ発った。
北海道での活動
1874年(明治7年)、夫妻は函館に赴任した。当時の函館は、禁教令(キリスト教禁止令)廃止直後であり、宣教師にとって安全な地とは言い難かった。国外から函館を訪れた者には、家の扉を固く閉ざして日本人を拒む者もいた。しかしフローラは夫メルマンと共に、快く日本人を家へ迎え入れた。友人となったドイツの船長から、護身用にピストルを渡されたが、「私たちが日本に来たのは護身のためではなく、愛を伝えるため」といって、そのピストルを海に沈めたという逸話もあった。
ハリスの伝道の一方で、フローラは婦人会を作り、西洋の日常生活を函館に伝えた。同1874年には女子教育のために、私塾「日日学校」を民家に設立した。
やがてフローラは、当時の函館に女子教育の仕組みが無いことを憂慮して、1878年に婦人外国伝道協会機関紙「ウーマンズ・フレンド」に「日本女子教育振興論」を著し、大きな反響を呼んだ。フローラはこの記事で、函館での女学校設立の必要を説いており、これに共感したアメリカ公使夫人のカロライン・ライトの献金により、遺愛女学校の創設のきっかけとなった。
函館において女子教育が開始された後、1880年に「日本女子職業論」を寄稿して、青山女子手芸学校の設立に尽力した。1882年、遺愛女学校の前身となるカロライン・ライト・メモリアル・スクールを函館元町に設立した。
文学にも精通しており、詩や文章も多く残した。1954年版の『讃美歌』343番もフローラの作詞である。文学の古典も愛好しており、1881年に『土佐日記』を英訳、和歌も作るほどであった。
札幌バンドの佐藤昌介、内村鑑三、新渡戸稲造たちの尊敬も集めた、特に内村鑑三とは親交があり、内村は自身の「僕が心底より尊敬するところの三恩人」の1人にフローラを挙げた。
晩年 - 没後
1883年に病気による帰国を経て、1905年(明治38年)にも日本にわたり、青山学院校内に住んだ。1909年(明治42年)9月7日に青山学院宣教師館で、脳脊髄炎により死去した。最期のときには「函館に行かねば!」と叫んだと伝えられる。同月に青山学院大講堂で葬儀が行われ、多くの弔問客が訪れた。死に先駆けて1907年(明治40年)、従三位に叙せられた。墓碑は生後10か月で早世した唯一の愛子と夫メリマンと共に、青山霊園の外人墓地にある。
そのわずか後の同1909年11月3日、フローラの勧めと献金が契機となり、神奈川県鎌倉にハリス記念鎌倉幼稚園が設立された。これは鎌倉市の「鎌倉の景観重要建築物等」の指定第6号として認定されている。
没後の2004年(平成16年)、フローラの「日日学校」設立から130年を記念した「創基130周年記念式典」が、函館の遺愛学院で行われた。遺愛学院はそれまで、開校時の1882年(明治15年)が起点とされて創立記念式典が開催されていたが、同2004年からは開校の原点に戻る意味を込め、フローラの私塾開設が創立年に定められた。
著作
- 『フローラ・ベスト・ハリス夫人詩集』新谷武四郎訳、1971年7月。 NCID BA42885440。
脚注
- ^ 武内 1995, pp. 314–315
- ^ 朝日新聞社 1994, p. 1355
- ^ 日本基督教団 1986, p. 1129
- ^ 「きょうの暦 1882年(明治15年)2月1日 遺愛学院前身の女学校が開校」『北海道新聞』北海道新聞社、2009年2月1日、渡桧朝刊、26面。
- ^ 押野友美「遺愛学院 創基140周年 刻んだ歴史 DVDに 3部構成 石川啄木の娘の写真も」『北海道新聞』、2014年9月19日、館A夕刊、13面。
- ^ “M.C.ハリス、〜函館ゆかりの人物伝”.函館市文化・スポーツ振興財団. p. 1. 2022年3月7日閲覧。
- ^ 山鹿 1995, pp. 178–179
- ^ 山鹿 1995, pp. 6–7
- ^ 大櫃敬史「新渡戸稲造の米国留学時代における農学研究に関する実証的研究:ジョンズ・ホプキンズ大学所蔵文書の分析を中心として」『北海道大学大学院教育学研究科紀要』第101号、北海道大学大学院教育学研究科、2007年3月30日、55-67頁、doi:10.14943/b.edu.101.55、hdl:2115/20486、ISSN 13457543、NAID 120000955509。 p.57より
- ^ 山鹿 1995, pp. 26–27
- ^ 山鹿 1995, pp. 28–29
- ^ 山鹿 1995, p. 35
- ^ 福島 1985, pp. 20–21
- ^ 福島 1985, pp. 22–23
- ^ “M.C.ハリス、〜函館ゆかりの人物伝”.函館市文化・スポーツ振興財団. p. 2. 2022年3月7日閲覧。
- ^ 田中瑠衣子「夕なぎ 報道部から 2004.11.5」『北海道新聞』、2004年11月5日、館B夕刊、18面。
- ^ 内田晶子「こども通信 遺愛学院本館も重文指定へ 正面に4本の丸い柱 現役校舎として使用」『北海道新聞』、2004年11月6日、館D夕刊、16面。
- ^ 坂本智尚「北の至宝 道内の文化財を訪ねて 函館の遺愛学院・旧宣教師館と本館 醸し出す異国情緒」『毎日新聞』毎日新聞社、2013年12月15日、地方版 北海道、24面。
- ^ 朝日新聞社 1994, p. 1356
- ^ 山鹿 1995, pp. 188–189
- ^ 『番町教会百年史』日本基督教団番町教会、1986年11月、313頁。 NCID BN05836266。
- ^ “日本基督教団鎌倉教会付属 ハリス記念鎌倉幼稚園”.鎌倉市 (1992年3月30日). 2022年3月7日閲覧。
- ^ 1910年(明治43年)とする資料もある。
- ^ 森研四郎 (2012年7月10日). “My 鎌倉”. e-ざ鎌倉・ITタウン.NPO法人鎌倉シチズンネット. 2022年3月7日閲覧。
- ^ “新・建築探訪シリーズ :歴史的建造物探訪 No.11” (PDF).一般社団法人 神奈川県建築士会. 2022年3月7日閲覧。
- ^ 「遺愛学院で創基130周年 卒業生ら1200人が祝う」『北海道新聞』、2004年11月3日、函A朝刊、28面。