Chen Chunpu
Quick Facts
Biography
陳 春圃(ちん しゅんほ)は中華民国の政治家。南京国民政府(汪兆銘政権)の要人。汪兆銘夫人・陳璧君の甥に当たる。
事跡
民国初期の活動
広州聖心書院を中退し、汪兆銘夫婦に随従する。1920年(民国9年)、汪が広東省教育会会長に就任した際には、陳春圃は同会図書館主任兼編輯主任となった。1924年(民国13年)1月、汪が中国国民党中央党部宣伝部部長となると、陳春圃は宣伝部秘書をつとめている。
1926年(民国15年)初頭に、ソ連に留学し、モスクワ中山大学で学んだ。翌年5月に帰国すると、汪兆銘の武漢国民政府に参加し、国民党組織部秘書となった。上海・武漢の両国民政府が合流すると、広州特別市党部常務委員となる。1928年(民国17年)10月、陳春圃はフランスを経由してニューヨークに向かう。汪の指示により『民気日報』という新聞社を創刊し、総編輯となった。
1931年(民国20年)に、満州事変(九・一八事変)が勃発すると帰国する。翌年5月に国民政府僑務委員会常務委員となった。1934年(民国23年)には、僑民教育処処長も兼任した。1938年(民国27年)12月、ハノイから香港へと移動し、汪兆銘の脱出工作等に従事した。翌年、汪が上海入りすると、陳春圃は機密文書の管理を担当する。9月、汪派国民党の中央常務委員会副秘書長に任ぜられた。
汪兆銘政権での活動
1940年(民国29年)3月、正式に南京国民政府が成立すると、中央政治委員会副秘書長、行政院秘書長、国民党海外党務委員会主任委員、中央儲備銀行監事に任ぜられた。翌年には、清郷委員会委員、社会行動指導委員会委員を、1942年(民国31年)には、時局策進委員会秘書長、新国民運動促進委員会常務委員をつとめた。1943年(民国32年)に国防会議副秘書となる。同年2月、敵産管理委員会委員、全国経済委員会委員をつとめた。
同年9月、陳春圃は建設部部長、中央党部組織部部長に抜擢されたが、この人事には、陳璧君の後押しがあったとされる。翌年2月、教育部部長、さらに中央党務工作人員訓練団教育長も兼任した。4月、広東省省長兼広州綏靖主任となる。12月には広東省保安司令も兼ねた。1945年(民国34年)1月に軍事委員会委員、2月に国民政府委員となる。同年4月、広東省省長から罷免された。
日本敗北後の9月、陳春圃は上海の軍統支部に自首し、上海市高等法院で審問を受けることになった。1946年(民国35年)10月、漢奸の罪で無期懲役の判決を受けている。
中華人民共和国建国後も、陳春圃は収監され続ける。1966年3月19日、上海市の監獄で病没した。享年67。