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Aoyama Yoshitoshi
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The details (from wikipedia)
Biography
青山 幸利(あおやま よしとし)は、江戸時代前期の大名。摂津国尼崎藩2代藩主。官位は従五位下・大膳亮。
生涯
元和2年(1616年)、初代藩主・青山幸成の長男として誕生。寛永20年(1643年)に父が死去したため、家督を継いだ。このとき、父の遺言で弟達に合わせて6000石を分与したため、尼崎藩は4万8000石となった。
寛永20年(1643年)、二年前の振袖火事の教訓から、幕府は江戸の防火体制の強化を目的に大名火消を制度化した。6万石以下の大名から16家を選び、4組に編成された火消役の一家として幸利が任命された。
万治2年(1659年)2月21日に奏者番に任じられる。延宝5年(1677年)、播磨国における天領の検地を務めた。藩政では名のある浪人を登用して家臣団の刷新を行い、治水事業を行っている。
貞享元年(1684年)、死去。享年69。長男・幸実は病弱だったために廃嫡し、幸実の長男・幸督が跡を継いだ。
神戸市中央区楠町の墓所には、平沼騏一郎書とされる「青山幸利候景仰碑」が建立されている。
湊川
建武の親政から南北朝の時期に活躍し、湊川の合戦で敗死した著名な武将である楠木正成の戦没地を、幸利は領内を調査し比定した上で同地に五輪塔を立てた。この地はのちに湊川神社となった。幸利は領内の外れの位置であるにもかかわらず、同地近隣に自らの墓所を設定し、そこに葬られている。
逸話
後世、尼崎藩士の桑原重英の手により、幸利の言行を集めた『青大録』が、また『青大実録』が編纂された。『青大録』には幸利の逸話が60余編収録されている。ただし後世に伝を集めた書であり、幸利の当時の言動・史実と必ず合致するという確証はない。また幸利は『名将言行録』にも記載がある。
『青大録』『名将言行録』における青山幸利
幸利は領国にいる間は、朝食と夜食だけであり、昼食は摂っていない。節約家であり、倹約として本丸ではなく二の丸に住んでいた。この二の丸屋敷は便所が遠かったが、幸利はその距離を苦労と思わず、夜中でも一人で灯りを持って通った。家臣らはこれを戒めたが、幸利は意に介さなかった。炬燵の蒲団も、普段の掛布団を流用していた。この掛布団が炬燵の火で焦げたが、焦げた部分を修繕してそのまま使った。どんどん汚れていく掛布団を見かねた家臣が洗濯を申し出たため、その間のための木綿の布団がやっと代替品として作られた。
尼崎城下にあった下屋敷の玄関に不具合があったため、家臣を呼んで修築費用を算出させた。久代常右衛門が銀三百匁と答えると、幸利は「それだけあれば足軽が一人雇える」として、修理は取り止めになった。
こうして倹約した金銭を、武具の購入や優秀な家臣の雇用には惜しみなく使っていた。また、大坂城の天守が落雷炎上した際は貯めた金子を諸大名に先立ちいち早く献上し、老中松平定綱に感嘆されている。
幸利の家中では年三度の馬揃えが開催された。これは平穏時の江戸大名としては多いほうである。開催の際に幸利は家中の者の乗馬を観覧したが、その中にまだ初心者がいて笑われていた。幸�window.adsbygoogle || []).push({});