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The basics

Quick Facts

Gender
Female
Birth
Death
Age
65 years
Family
The details (from wikipedia)

Biography

愛加那(あいかな、あいがな、ありかな、天保8年(1837年) - 明治35年8月27日(1902年9月28日))は、西郷隆盛が安政の大獄の際に幕府の追及を逃れるため、藩命により奄美大島に潜居した時の島妻。

龍郷の田畑家歴代墓地(弁財天墓地)では龍愛子とある。

経歴

奄美大島の名門一族である家(田畑家)の娘。幼名は於戸間金(おとまがね、おとまがに)。「於」は尊称、「金」は加那の古称なので、名は「とま、とぅま」。

西郷隆盛(この時の通り名は菊池源吾)が奄美大島に流人(潜居の名目)として来島してから10ヶ月後の、安政6年(1859年)11月8日に結婚。結婚時に西郷が「愛」の名を与え、愛加那となる(愛子とも)。

当時の薩摩藩の藩法により、西郷が島滞在中だけの妻となり、約3年間を共に過ごす。当初はこの頃身を寄せていた龍家本家の離れで2人は暮らした。なお、この本家を相続代理人として管理していたのが龍為行(佐民)である。万延2年(1861年)2月11日には菊次郎(西郷菊次郎)を産む。同年11月20日には愛加那のために建てた新居が完成し本家から移り住む(現在の「西郷南州流謫跡」)。しかし、西郷は薩摩藩からの召喚状を受け、文久2年(1862年)1月14日に大島を立ち、これが最初の別れとなる。

しかし西郷は時の国父・島津久光の不興を買い、再び徳之島に罪人として遠島処分となる。同じ文久2年(1862年)6月30日、途中で大島の西古見崎に停泊するが、この時、西郷が間切横目の得藤長に、愛加那に来ないよう依頼する手紙を送付している。同年7月2日、徳之島の湾仁屋に西郷が到着。偶然この日に菊草(菊子、大山誠之助の妻)を産んだ。

また、同年8月20日には西郷が大島代官の木場伝内宛に愛加那に来させないように依頼する返書を送付しているが、西郷の徳之島来島を伝え聞いた愛加那は、8月26日に大島から兄を伴って子供2人を引き連れ西郷のもとへ駆けつける。久々の親子対面を喜んだのも束の間、翌8月27日には藩から沖永良部島へ遠島する命令書が代官所に届いた。そこで西郷とは再び別れ、翌日には大島への帰途に着いた。戻った後は得藤長や木場伝内、この頃大島に左遷されていた桂久武などの後援を受けて生活する。

西郷は沖永良部島で罪人として牢に入れられ健康を害するが、後に待遇が改善される。翌々年の元治元年、西郷はようやく久光に赦免され、2月21日に沖永良部島を去る。途中、2月23日に大島・龍郷の愛加那の新居に立ち寄り数日を過ごし大島を立つ。これが西郷との3度目かつ最後の別れとなり、以降愛加那は大島を出ることなく、書状や進物をやり取りするのみであった。

なお、2人の子は父に再会した。菊次郎は維新後の明治2年に鹿児島の西郷家に引き取られた。菊草(菊子)は愛加那の元に残るが、12歳の頃に鹿児島の武村西郷家に引き取られ、14歳には大山誠之助と婚約する。明治維新により藩法の枷も無くなった折、菊草と共に愛加那も鹿児島を訪れるように書状で促されるが、ついに実現しないまま西南戦争を迎える。戦役で西郷は自刃、出陣した菊次郎も重傷を負い、誠之助は投獄される。

戦役で負傷した菊次郎は暫くの間、故郷大島の実家愛加那の元で過ごしており、菊次郎が台湾に赴任する際も実家に立ち寄っている。いっぽう、菊草は大島に戻ることはなく、明治13年(1880年)に誠之助と結婚、4子をもうけるが不和となり、子は大山巌に引き取られた。西南戦争から21年後の明治31年(1898年)、大島の地元有力者や笹森儀助らの尽力により、龍郷屋敷の庭に勝海舟銘による「西郷南洲流謫地の記念碑」が建立、記念式典には愛加那も参列した。

明治35年(1902年)9月28日、農作業中に倒れ亡くなる。享年65。

名前

なお愛加那の名前については、西郷が書簡で「ありかな」と記名したものが現存していることなどから一部の研究者からは『アリカナ』と読むのではないかと指摘もされていたが、2018年になって歴史研究家の原田良子の研究により西郷の親族から提供を受けた西郷と愛加那との息子である西郷菊次郎の戸籍を確認したところ、母の欄に「アリカナ」と記載されていることが判り、戸籍上の表記が明らかとなった。

これに関し、原田や原口泉(志學館大学教授、2018年度NHK大河ドラマ『西郷どん』時代考証担当)は「当時の薩摩言葉ではラ行の発音が難しいので、音便変化で『リ』が『イ』となったのではないか。そのためアリカナも口伝えで「あいかな」として広まり、死後に愛加那の字が当てられたという可能性がある」としている。また、上代由来の和語「うなゐ」は「うなり」、「おなり」と転訛する事から、「あいかな」の「い」も「ゐ」と似た系列の表音とも考えられる。さらに、奄美語と関係の深い琉球語では和語と比較してR音が脱落する事も良く知られている(蟻:あり→あい)。

「龍 愛子」と記す愛加那自身の戸籍が奄美にあることが知られており、さらに「龍 愛」と署名した明治29年や31年の書簡も現存している。「愛」加那は没前から使われ、戸籍にも載っている一方、母の欄に「アリカナ」と記す西郷菊次郎の戸籍は、愛加那の死後、明治37年以降に作成されたことが判明している。つまり「アリカナ」は本人の戸籍に記載された正式な名前ではなく、むしろ西郷家側からの〝呼び名〟であった可能性が高い。

家族・系譜

愛加那の出自は、笠利(かさり)氏からつながる奄美大島の名門一族「龍家(田畑家)」で、分家筋の龍為志(りゅう・ためし)の娘。父・為志は分家(次男家)の当主・為堅の弟で、為堅は分家となって6代目にあたる。

西郷との婚儀の媒酌人を務めた龍佐民(為行)の名が小説やドラマ等でしばしば登場するが、西郷が龍家で暮らした当時、佐民が相続人代理として暫定的に本家を管理していたことによる。笠利氏家譜によれば、佐民の父・為勝が始祖・笠利為春から数えて17代目当主にあたり(兄・為善が18代目)、その四男とされる佐民は愛加那の叔父ではない。

  • 本家筋
    • 龍為勝(佐文仁)
    • 為勝の妻:福松加那
      • 龍為善
      • 龍佐運(佐民の異母兄)
        • 龍佐文
    • 為勝の妻:真志加那
      • 龍為行(佐民)
      • 佐民の妻:龍石千代
    • 龍佐富(石千代の父)
  • 分家筋
    • 龍為堅
    • 龍佐栄志(為志)
    • 佐栄志の妻:枝加那
      • 龍富堅
      • 龍愛子(とま)

西郷との間に生まれた長子は西郷菊次郎(後の京都市長他)。娘の菊草(きくそう)は大山誠之助(大山巌の弟)の妻となった。また一説には富堅の子を愛子の養子にしたとあるが不詳である。

小説やドラマ等では貧しい農家の娘として描かれることがあるが、事実はまったく異なる(そもそも、農民に名字はない)。龍家(田畑家)は初期より薩摩藩による奄美統治の一翼を担っており、藩財政を支える砂糖生産を管理する為政者サイドであった。

『田畑家家譜』等によると、もともと龍・田畑家は奄美大島の支配者・笠利氏を名乗り、長らく藩政に協力した後、1726年に代々外城衆中格(後の郷士格)となり「田畑」の名字を与えられるが、1785年に藩命により龍に改める(明治になって田畑に復姓)。

本祖である為春(1482年 - 1542年)は琉球の尚稷王(しょう・しょくおう、1434年没)の孫とされ、『校正鹿児島外史』等では、笠利氏は源為朝の嫡流(嫡男・為頼の裔孫)であるとされている。後の龍家は明治維新まで奄美の実質的な為政者として存続し、幕末期の薩摩藩の主財源であった砂糖生産に大きく貢献した。

登場作品

テレビドラマ
  • 日本テレビ年末大型時代劇『田原坂』(1987年、演:多岐川裕美)
  • NHK大河ドラマ『翔ぶが如く』(1990年、演:石田えり)
  • NHK大河ドラマ『西郷どん』(2018年、演:二階堂ふみ)

脚注

注釈

  1. ^ 表記や読み方については本文を参照。
  2. ^ もっともこれは後世の脚色であるとする異説があり、来ないようにとの書状は、結局は代官や役人を通じて来島を催促する結果となり、また1日ではなく1週間ほど再会の時を過ごしたとの説もある。
  3. ^ 菊草(菊子)と誠之助が別居し子が引き取られたのは愛加那の没後、明治40年(1907年)の事である

出典

  1. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus
  2. ^ 幕末維新風雲伝
  3. ^ 愛加那 - 西郷家の女性たち
  4. ^ 龍郷集落より1kmほど南にあり、かつて小浜と呼ばれていた。(地図
  5. ^ “西郷どんの妻、実は「愛加那」ではなく「アリカナ」”. アサヒ・コム. 朝日新聞社. (2018年12月7日). https://www.asahi.com/articles/ASLD756TLLD7TIPE01B.html 2018年12月16日閲覧。 
  6. ^ “西郷隆盛2番目の妻の名は「アリカナ」戸籍で確認”. 毎日新聞デジタル. 毎日新聞社. (2018年12月7日). https://mainichi.jp/articles/20181207/k00/00m/040/250000c 2018年12月16日閲覧。 
  7. ^ 坂元盛秋『西郷隆盛―福沢諭吉の証言』新人物往來社、1971年。
  8. ^ 笹森儀助書簡集編纂委員会編『笹森儀助書簡集』東奥日報社、2008年。笹森儀助は当時の大島島司。
  9. ^ 今回報道と同じ戸籍原本に基づく謄本が、すでに西郷隆文『西郷隆盛 十の「訓え」』三笠書房、2017年刊に全文掲載されている。そこには、この戸籍が菊次郎が分家独立した明治37年に作成されたことと、以後京都・鹿児島へと転籍していること(市外への転籍時には戸籍が再作成される)が記載されている。
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