森川清治郎
Quick Facts
Biography
生前
1861年、横浜市中区紅梅町(現・神奈川県横浜市西区戸部本町)の農家の息子として生を受けた。日本にて警察官としての業務をこなしていた。
日清戦争後の1897年、台湾が日本の統治下になったのをきっかけに渡台し、台南県下の大坵田西堡副瀨庄(現・嘉義県東石郷副瀬村)の派出所勤務となった。劣悪な治安情勢の中、粉骨砕身の思いで任務を続ける傍ら、寺子屋を開き、日本より教科書を取り寄せて住民に読み書きを指導した。また、衛生状態を改善するために排水溝を作るなど衛生教育にも熱心であった。こうしたことから、近隣住民からは「大人」と慕われるようになった。
1901年に台湾総督府が漁業税を新たに制定、漁業中心の貧しい暮らしをしていた副瀬村は立ち行かなくなり、税の減免を森川へ嘆願した。これを聞いた森川は村民の意向を聞き入れ、嘉義庁東石港支庁へ赴き、減税を求めたが、当時の支庁長は「警官でありながら、村民を扇動するつもりか」と要請を跳ね除けた上、森川を訓戒処分に処し徴税を重ねて命じた。この件がきっかけとなり、森川は1902年4月7日、朝の巡回を終えた後に所持していた村田銃の引き金に足の指をかけて頭部を打ち抜いて自殺した。
死後(義愛公)
森川の死後の1923年、副瀬村近隣にコレラ脳炎などの伝染病が流行した。当時保正(村長)であった李九は、夢枕に森川が警察官の服装で現れ、「環境衛生に心がけ、飲食に注意し、生水、生ものを口にせぬこと」というお告げの内容を村民に告げた。村民がこれを守ったところ、伝染病の流行をまぬがれることができた。生前の森川が衛生に特に熱心であった影響と思われる。
そして「森川巡査の義と愛に感謝して」と義愛公(ぎあいこう)の尊称をつけられた森川の御神体が造られて長く愛されるようになった。21世紀現在、森川家は絶えてしまい、日本からは姻戚の兜木家の者がたまに参拝しているが、地元での信仰は篤く、分霊も行われている。
脚注
注釈
出典
- ^ 「台湾の神様はハマっ子 植民地時代の日本人巡査「義愛公」」朝日新聞神奈川版1頁(2000年7月7日・朝刊)
- ^ 「[ちきゅう・時の散歩]森川清治郎in嘉義」読売新聞15頁(2012年6月1日・東京夕刊)
- ^ 【世界を感動させた日本】台湾で神になった日本人 漁民に寄り添い自決した巡査 - zakzak2018年4月24日 閲覧