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Biography

梁 統(りょう とう、生没年不詳)は、中国代から後漢時代初期にかけての武将、政治家。字は仲寧涼州安定郡烏氏県の人。河西に勢力を張った新末後漢初の群雄の1人である竇融の片腕と言うべき人物。後に後漢草創期の功臣の1人となった。

春秋時代の大夫梁益の末裔。父は梁延。兄は梁巡。子は梁松、梁竦。従弟は梁騰。梁統の祖先は元々は河東郡に居住していたが、梁統の曾祖父梁橋の代(哀帝平帝の末)に安定に移住した。後漢後期の外戚・権臣である梁冀は梁統の玄孫(梁竦の曾孫)にあたる。

事跡

竇融擁立

姓名梁統
時代代 - 後漢時代
生没年〔不詳〕
字・別号仲寧(字)
本貫・出身地等涼州安定郡烏氏県
職官中郎将兼酒泉太守〔更始〕

→武威太守〔隗囂〕
→武威太守兼宣徳将軍〔後漢〕
太中大夫〔後漢〕→九江太守〔後漢〕 

爵位・号等成義侯〔後漢〕→高山侯〔後漢〕

→陵郷侯〔後漢〕

陣営・所属等王莽更始帝隗囂光武帝
家族・一族父:梁延 兄:梁巡 子:梁松、梁竦

一族:梁騰〔従弟〕

梁統は剛毅な性格で、法律を好んだ。最初は州郡に任官し、更始2年(24年)、更始帝(劉玄)に召されて中郎将に任じられ、また、涼州の安寧のために、酒泉太守に任命された。

更始3年(25年)、更始政権が滅亡し、赤眉軍長安に入城すると、梁統は、竇融や他の河西の郡太守たちと共に、連合して匈奴から自らを守ろうとした。この際、官位に基き、参画者たちは梁統を頭領に推薦したが、梁統は辞退し、竇融を河西大将軍(正確には、行河西五郡大将軍事)として頭領に擁立している。梁統は武威太守に移り、その統治は厳格で、威信は隣郡にまで及んだ。

漢での実績

建武5年(29年)、竇融が光武帝への服属を決心し、その長史劉鈞を使者として洛陽に派遣すると、梁統ら河西5郡の太守も、それぞれ使者を派出し、劉鈞に随従させた。これにより竇融は涼州牧に任命され、梁統も宣徳将軍の地位を加えられている。

また、竇融と梁統らはそれまで、当時の群雄の1人で、隴右に勢力を張る隗囂に形式的に帰属していたが、隗囂は蜀(成家)の公孫述へ傾斜していたため、竇融・梁統らは隗囂から離れ始める。梁統は河西での隗囂の代理人張玄を暗殺し、竇融らと同様に、隗囂から授与されていた将軍印を破棄した。建武8年(32年)、光武帝が隗囂を親征すると、梁統も竇融と共に第一城(安定郡高平県)でこれに合流・参戦し、隗囂撃破後に、梁統は成義侯に封じられている。

建武9年(33年)、梁統は太中大夫竇士と共に、建威大将軍耿弇による第一城の高峻討伐に参加したが、1年かけても攻略はできなかった。

建武12年(36年)、梁統は竇融と共に洛陽へ参じて列侯として朝請を奉り、さらに高山侯に封じられ、太中大夫に任命された。梁統は、朝廷に在っては、度々有益な建議を行っている。また、法令による刑罰が軽いと犯罪を抑止できないとして、旧法典に遵い重罰を科すべきと奏上した。しかし結局のところ、諸事情により、この方針は中央では採用されずに終わる。

後に、梁統は九江太守に転任し、陵郷侯に転封されている。梁統は任地で優れた治績をあげ、官吏・民衆から愛された。在職中に死去し、子の梁松が後継している。

脚注

  1. ^ 中国の北西部で、黄河が内陸を北東に流れる領域において、その西部。
  2. ^ 中国の北西部で、隴山の西部(南面して隴山の右手側にあるので隴右)。隴西県・隴西郡はあるが、隴右県や(宋時代の僅かな例を除いて)隴右郡は無いように、通称である。

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