Yukawa Kankichi

13 Jul 1868 - certain 23 Aug 1931
The basics

Quick Facts

Intro13 Jul 1868 - certain 23 Aug 1931
PlacesJapan
wasBusinessperson Politician
Work fieldBusiness Politics
Gender
Male
Birth13 July 1868
Death23 August 1931 (aged 63 years)
Star signCancer
Education
University of Tokyo
Awards
Order of the Sacred Treasure, 3rd class 
The details

Biography

湯川 寛吉(ゆかわ かんきち、慶応4年5月24日(1868年7月13日) - 昭和6年(1931年)8月23日)は、第5代住友総理事である。

経歴

慶応4年(1868年)5月24日、紀伊国東牟婁郡新宮町841番地(現和歌山県新宮市千穂1丁目)で紀伊新宮藩の藩医湯川寛斎と八重の長男として生まれた。新宮小学校を卒業後、和歌山中学校へ入学したが中退し、東京ドイツ協会学校に在籍した。明治15年(1882年)東京大学予備門に入学して医科大学へ進む予定であったが、独法科が設置された法科大学に転学し、明治23年(1890年)東京帝国大学法科大学独法科を卒業した。

同年逓信省に入り、明治27年(1894年)日清戦争の野戦高等郵便局長として戦地で活躍、明治28年(1895年)東京郵便電信学校の校長となる。明治30年(1897年)万国郵便会議委員として外遊、同年逓信省参事官、明治31年(1898年)東京郵便電信局長、明治32年(1899年)外務省参事官兼任、明治36年(1903年)東京通信管理局長などを歴任した。

明治38年(1905年)大学の先輩である鈴木馬左也の推挽によって住友に入社した。入社と同時に住友本店支配人となり、鈴木総理事の補佐役となった。明治43年(1910年)理事に昇進し、総本店支配人、さらに住友伸銅所支配人を兼ね、鈴木・中田に次ぐナンバースリーに位置した。明治44年(1911年)伸銅場から電線事業を分離し、住友電線製造所(住友電工の前身)を設立した。

大正4年(1915年)には、住友鋳鋼所(住友金属の前身)の取締役、大正14年(1925年)には取締役会長となる。大正4年(1915年)住友銀行筆頭常務に転じ、銀行業務拡張のため欧米を視察。市中邦銀最初の海外支店として、カリフォルニアとハワイに支店を設置した。

大正10年(1922年)大阪手形交換所委員長、ついで大正14年(1925年)住友合資総理事に就任した。総理事就任後は、住友を産銅資本から総合企業へ飛躍させるため、別子鉱業所を住友合資会社の直営から分離し、本社傘下の連系会社にするなど、住友は、海上火災・信託・生命・倉庫・銀行・大阪北港・ビルデイング・林業所・鉱山・炭鉱・伸銅鋼管・製鋼所・電線製造所・日本電気・肥料製造所・日本板硝子の連系各社を擁する総合企業となる。

昭和3年(1928年)停年を迎えたが、若い16代家長住友友成の後見人として停年が3年間延長された。昭和5年(1930年)任期延長を満たさず総理事を辞職し、相談役として、また貴族院議員(1930年12月23日就任、研究会所属)として、関西経済界の重鎮となる。しかし昭和6年(1931年)8月23日、インフルエンザによる肺炎により64歳で急逝した。

栄典

位階
  • 1897年(明治30年)2月10日 - 従六位
勲章等
  • 1895年(明治28年)12月25日 - 勲五等双光旭日章
  • 1928年(昭和3年)11月10日 - 勲三等瑞宝章

脚注

  1. ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』176頁。
  2. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年、38頁。
  3. ^ 『官報』第4081号「叙任及辞令」1897年2月12日。
  4. ^ 『官報』第3777号「叙任及辞令」1896年2月4日。
  5. ^ 『官報』号外「授爵・叙任及辞令」1928年11月10日。

関連項目

  • 住友財閥
  • 和歌山県出身の人物一覧
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