Yasunosuke Seki
Japanese academic
関 保之助(せき やすのすけ、1868年5月2日〈慶応4年4月10日〉 - 1945年〈昭和20年〉5月25日)は、明治から昭和時代にかけての有職故実家。東京帝室博物館学芸委員、重要美術品等調査委員。有職故実、甲冑武器の考証家として著名だった。蒐集家としては東都において小堀鞆音に並ぶ存在として知られた。筆名に波爾和、号に花郷、加和羅廼舎、箙廼舎。
江戸小石川原町(現・文京区)に一橋徳川家臣・関守真の二男として生まれる。幼い頃より古武器を愛好し、歴史画家を志して、明治23年9月に東京美術学校に入学した。同期に横山大観・下村観山らがいた。日本画を学び、明治26年7月、同校の第1回卒業生として専修科絵画科を卒業した。卒業制作は「藤原式室内装飾図」で、パリ万国博覧会にも出品された 。卒業後、石川県工業学校教諭となる。乱視のために画家を諦め、有職故実研究に従事する。
東京美術学校助教授、帝国美術歴史編纂掛を経て、明治34年帝国大学史料編纂委員、大正8年京都帝室博物館学芸委員、11年同館列品課長、13年奈良帝室博物館列品課長、昭和8年東京帝室博物館学芸員を歴任した。母校のほか、京都帝国大学でも教えた。明治41年には靖国神社附属遊就館整理事業の整理委員も務めている。明治37年に結婚し、二男一女をもうけた。
著書に『式正の鎧』(口述)などがあるが僅少で、講演や談話で自説を開陳することが多かった。
東京大空襲により渋谷区千駄ヶ谷2丁目の自宅で二男夫婦以外の家族とともに戦災死した。昭和25年に従五位叙せられた。