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Biography
屋良 里之子(ヤラ サトゥヌシ、時憲暦康熙18年2月15日(グレゴリオ暦1679年3月26日) – 時憲暦雍正12年7月12日(グレゴリオ暦1734年8月10日))は、琉球王国第二尚氏王朝時代の囲碁棋士。唐名は薛 以恭、名乗は利忠、童名 (琉球諸島・奄美群島)は真山戸、号は道機。出家後の法号は因祐。采地が屋良村であり、位階が里之子であったことから、「屋良里之子」の名で知られた。最終的な采地は屋嘉部村であったことから、屋嘉部里之子親雲上利忠とも呼ばれた。また出家により僧となった後は屋嘉部因祐あるいは屋嘉部因祐利忠と呼ばれた。
生涯
屋良里之子は康熙18年2月15日に勝連親雲上利良(薛芳哲)と本妻の呂氏眞呉勢(号は心臺)の長男として誕生、薛氏屋嘉部家の3世であった。兄弟は、弟が2人と妹が5人いた。康熙38年、算用座の役職である筆者に就く。康熙44年、尚貞王と囲碁を対局。康熙45年7月、従八品若里之子となり、屋良村の地頭となったことから、「屋良里之子」と呼ばれるようになった。
日本の囲碁棋士との対戦
康熙48年8月、屋良里之子は琉球使節に任命され、江戸幕府で徳川家宣が征夷大将軍に襲職する慶賀のため日本の江戸に派遣された。屋良里之子は美里王子朝禎(唐名は尚紀)を長とする慶賀使の随員として、11月11日に江戸に到着した。12月1日、屋良里之子は当時七段の本因坊道知と対局した。本因坊道知は外国棋士との対局では向三子とする慣例であり、屋良里之子は三子を置いて対局した。結果は第一局、第二局とも屋良里之子の中押し負けであった。両局はそれぞれ「道知授屋良里之子三子局」、「十厄勢」として知られている。
(「道知授屋良里之子三子局」白中押し勝ち194手まで、手順略)
本因坊道知との対局はこれで終了。また屋良里之子は当時13歳の相原可碩三段とも対局し、結果は可碩の2目勝ちであった。本因坊道知は屋良里之子への三段免状発行の推薦と、伝法の書を1冊贈った。
帰国後
屋良里之子は帰国後、康熙50年に米御蔵の役職である筆者に就いた。康熙51年10月、黄冠を叙される。康熙52年、御書院で御路地の役職に就き、続いて御茶道相に転任。その6日後、剃髪出家し、法号を因祐とする。ただし琉球王国には依然として仕えたままであった。その後も御書院の御路地の役職を兼任し、南風原間切の新川地頭職、玉城間切の屋嘉部地頭職を歴任。
囲碁棋士としては、乾隆2年に弟子として熱田親雲上忠春(任弘済)が入門。弟子の熱田忠春は後に田頭親雲上として井上春碩因碩七段と対局して勝利し、「日本国大国手」の免状を与えられた。
屋良里之子は雍正12年7月12日に、享年56歳で死去。