Yamamoto Keigu

���本の儒学者、医者、本草学者
The basics

Quick Facts

Intro���本の儒学者、医者、本草学者
PlacesJapan
wasScholar Confucian scholar
Work fieldAcademia
Gender
Male
Religion:Confucianism
Birth4 February 1827, Kyōto, Kyoto, Kyōto Prefecture, Japan
Death27 October 1903Shimogyō-ku, Kyoto, Kyōto Prefecture, Japan (aged 76 years)
Star signAquarius
Family
Father:Yamamoto Bōyō
Siblings:Yamamoto Yōshitsu Yamamoto Gendō
The details

Biography

山本 渓愚(やまもと けいぐ、文政10年1月9日(1827年2月4日) - 明治36年(1903年)10月27日)は幕末、明治の儒学者、医者、本草学者。京都の本草学者山本亡羊の子。駅逓司、博覧会等の行政に関わり、兄山本榕室没後、山本読書室を受け継ぎ、聚芳社を創立した。また、久邇宮家、本圀寺、賛育学社、京都市美術学校等でも各種学問を教えた。

生涯

修学

文政10年(1827年)1月9日京都油小路通五条上ル上金仏町に生まれた。山本家の下、6歳で漢詩を始め、9歳で四書を暗誦し、12歳で四書五経に通じた。15歳で森徹山、蒲生竹山に絵画を学んだ。

西国各地へ採薬旅行に赴き、嘉永4年(1851年)には北越地方、文久2年(1862年)には周防国まで足を伸ばしている。

政府出仕

明治元年(1868年)3月太政官により内国事務局書記を命じられ、4月会計官駅逓司、5月駅逓司判事、次いで知事試補となるも、7月判事に戻り、9月判事頭取に就任した。明治2年(1869年)2月8日聖上御車幸御用掛となり、3月7日明治天皇に従い東京に渡った。5月19日駅逓司を辞職し、6月20日京都に帰った。

明治5年(1872年)3月博覧会事務局に出仕し、4月東京に戻り、ウィーン万国博覧会事務に携わり、明治6年(1873年)11月辞職し、京都に帰った。

明治8年(1875年)10月京都博物館御用掛、明治18年(1885年)3月京都博覧会特別品評部長を務めた。

本草会活動

文久元年(1861年)8月1日から海紅亭と号して物産会を行った。明治7年(1874年)5月10日松原通不明門の大火で本家読書室が焼失すると、明治8年(1875年)2月新居を建て、明治9年(1876年)10月10日本草会を引継ぎ、以降毎月15日に開いた。

明治20年(1887年)11月聚芳社を創立し、後に博物会と改称された。

教育活動

明治13年(1880年)1月23日久邇宮朝彦親王により彦宮(久邇宮邦彦王)侍講を任され、明治23年(1890年)3月成城学校入学まで書画、漢籍、経史を教えた。その後多嘉王、女王7名、厳宮(賀陽宮邦憲王)、邦憲王妃に教えた。また、明治17年(1884年)生まれた第四王女を命名した。

明治13年(1880年)4月から明治29年8月まで本圀寺教主の要請で僧侶に講義を行った。明治14年(1881年)11月賛育学社都講となって漢方医学を教え、明治27年(1894年)5月京都市美術学校講師、7月日本弘道会京都支部名誉講師も歴任した。

晩年

明治32年(1899年)5月脳卒中で言語渋滞、半身不随となるも、12月平癒した。明治35年(1902年)病のため久邇宮侍講を辞職した。明治36年(1903年)8月頃腸内不利となり、10月26日悪化し、27日払暁死去し、紀伊郡深草村宝塔寺に葬られた。

著書

経学等

  • 考訂孝経
  • 考訂大学
  • 考訂中庸
  • 論語補註
  • 孟子補註
  • 詩経新註
  • 易経新註
  • 春秋経文直解
  • 百人一首小解

本草学

  • 万葉古今二集動植正名
  • 本草写生図譜

詩文

  • 対竹斎詩集
  • 九思堂日記 嘉永2年(1849年) - 安政7年(1860年)
  • 入越日記 嘉永4年(1851年)
  • 丹記 嘉永6年
  • 海紅亭日録 安政7年(1860年) - 明治15年(1882年)
  • 西游日記 文久2年(1862年) - 明治2年(1869年)
  • 東行日記 明治23年(1890年)
  • 烈夫伝
  • 渓愚随筆 天文地理
  • 渓愚詩草 西遊集

親族

  • 父:山本亡羊 - 本草学者。
  • 母:玲子 - 華頂宮臣青木如水二女。天明8年(1788年)12月13日生、享和2年(1802年)5月25日結婚、嘉永5年(1852年)2月18日没。
    • 兄:山本榕室 - 錫夫、沈三郎。家督を継いだ。
    • 兄:山本弦堂 - 秀夫、秀五郎。医業を修め、新政府に出仕した。
    • 弟:山本確斎 - 正夫、余一郎。鳥飼に医業を開いた後、新政府に出仕した。
    • 弟:山本楓庭 - 善夫、十二郎。富田に医業を開いた後、度会県大属を務めた。
  • 前妻:菊 - 大浦中務娘。安政2年(1855年)5月結婚、文久3年(1863年)8月没。
    • 長男:条太郎 - 安政4年(1857年)3月生、6月没。
    • 次男:継二郎 - 安政5年(1858年)5月生、6月没。
    • 長女:石 - 万延元年(1860年)3月生、10月没。
  • 後妻:小森氏 - 明治3年(1870年)8月結婚、明治22年(1889年)8月没。
    • 次女:文 - 明治5年(1872年)1月生、明治25年(1892年)10月藤田家に嫁ぐ。
    • 三女:盧(以保子) - 明治8年(1875年)2月15日生、明治35年(1902年)10月25日没。
    • 三男:山本規矩三 - 明治11年(1878年)12月生。帝室博物館監査官、奈良帝室博物館列品課。

脚注

  1. ^ 真下 1922, p. 1.
  2. ^ 真下 1922, p. 19.
  3. ^ 真下 1922, p. 20.
  4. ^ 真下 1922, p. 21.
  5. ^ 真下 1922, p. 22.
  6. ^ 真下 1922, p. 2.
  7. ^ 真下 1922, p. 23.
  8. ^ 西尾市岩瀬文庫古典籍書誌データベース”. 西尾市岩瀬文庫. 2016年1月6日閲覧。
  9. ^ 真下 1922, p. 24.
  10. ^ 真下 1922, p. 10.
  11. ^ 真下 1922, p. 3.
  12. ^ 真下 1922, p. 4.
  13. ^ 真下 1922, p. 9.
  14. ^ 真下 1922, p. 26.
  15. ^ 真下 1922, p. 14.
  16. ^ 考訂孝経』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  17. ^ 考訂中庸』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  18. ^ 論語補註 乾』 - 国立国会図書館デジタルコレクション『論語補註 坤』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  19. ^ 詩経新註 巻之上』 - 国立国会図書館デジタルコレクション『詩経新註 巻之中』 - 国立国会図書館デジタルコレクション『詩経新註 巻之下』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  20. ^ 松田 2014, p. 167.
  21. ^ 松田 2014, p. 96.
  22. ^ 対竹斎詩集』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  23. ^ 松田 2014, p. 108.
  24. ^ 松田 2014, pp. 67,69,108.
  25. ^ 松田 2014, p. 109.
  26. ^ 松田 2014, p. 71.
  27. ^ 松田 2014, p. 143.
  28. ^ 松田 2014, p. 331.
  29. ^ 松田 2014, p. 106.
  30. ^ 中島 1909, p. 39.
  31. ^ 松田 2014, p. 243.
  32. ^ 中島 1909, p. 40.
  33. ^ 中島 1909, p. 43.
  34. ^ 中島 1909, p. 48.
  35. ^ 中島 1909, p. 49.
  36. ^ 松田 2014, p. 338.
  37. ^ 松田 2014, p. 317.
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