蕭宝玄(蕭寶玄、しょう ほうげん、生年不詳 - 500年)は、南朝斉の皇族。江夏王。明帝蕭鸞の三男。字は智深。
経歴
蕭鸞と劉恵端のあいだの子として生まれた。494年(建武元年)、征虜将軍の号を受け、領石頭戍事をつとめた。11月、江夏郡王に封じられた。持節・都督郢司二州諸軍事・西中郎将・郢州刺史として出向した。498年(永泰元年)、建康に召還されて前将軍の号を受け、領石頭戍事となった。赴任しないうちに兄の蕭宝巻が即位すると、宝玄は鎮軍将軍に進んだ。499年(永元元年)8月、車騎将軍に進み、兄の晋安王蕭宝義に代わって使持節・都督南徐兗二州諸軍事・南徐兗二州刺史として出向した。宝玄は尚書令徐孝嗣の娘を妃として迎えていたが、徐孝嗣が蕭宝巻の命により毒殺されると、宝玄は妃と離別させられ、代わりに少姫二人を与えられた。宝玄は恨みを抱いて、ひそかに蕭宝巻を打倒する計画を立てた。500年(永元2年)3月、崔慧景が挙兵して広陵に入ると、宝玄のもとに使者を送って君主として立つよう願い出た。宝玄は崔慧景の使者を斬り、将兵を動員して城を防衛するかまえをみせた。蕭宝巻は馬軍主の戚平や外監の黄林夫を京口に送って宝玄を助けさせようとした。崔慧景が長江の北岸までやってくると、宝玄はひそかに崔慧景と連絡して、司馬の孔矜や典籤の呂承緒および戚平・黄林夫を殺して、開門して崔慧景を迎え入れた。長史の沈佚之や諮議の柳憕に兵を統率させ、自らは輿に乗り、手に絳麾幡を取って、崔慧景に従って建康に入った。東城に居をかまえると、多くの人士が周囲に集まった。4月、崔慧景が敗死すると、宝玄と崔慧景の名声に引かれて集まった人々は離散した。蕭宝巻は江夏王以外の余人に罪を及ぼさないことを言明した。宝玄は数日のあいだ逃亡していたが、出頭した。数日後に殺害された。
伝記資料
- 『南斉書』巻50 列伝第31
- 『南史』巻44 列伝第34