Wang Liang

Chinese politician from the Song and Liang dynasties
The basics

Quick Facts

IntroChinese politician from the Song and Liang dynasties
PlacesChina
Military personnel Politician
Work fieldMilitary Politics
Gender
Male
Death510
The details

Biography

王 亮(おう りょう、生年不詳 - 510年)は、南朝宋から梁にかけての政治家。字は奉叔。本貫は琅邪郡臨沂県。

経歴

給事黄門侍郎の王攸(王偃の子)の子として生まれた。東晋の丞相王導の六世孫にあたる。宋末に公主を妻に迎えて、駙馬都尉・秘書郎に任じられた。桂陽王文学や南郡王友、秘書丞をつとめた。斉の竟陵王蕭子良が西邸を開き、俊才を集めて士林館を作ると、王亮もこれに参加した。中書侍郎・大司馬従事中郎に転じ、衡陽郡太守に任じられた。じめじめした南方の土地を嫌って赴任せず、給事黄門侍郎となった。まもなく晋陵郡太守に任じられ、清廉公平な統治で知られた。蕭鸞が相となると、王亮を召して領軍長史とした。蕭鸞(明帝)が即位すると、王亮は太子中庶子・尚書吏部郎をつとめ、侍中に転じた。

建武末年、吏部尚書となった。ときに尚書右僕射の江祏が朝政をつかさどり、かれの任用した人々が高位を占めた。王亮は江祏と深い交友関係があった。江祏が処刑されると、かれに近しい人々は免官され、王亮も例外ではなかった。まもなく通直散騎常侍・太子右衛率の位を加えられ、尚書右僕射・中護軍となった。東昏侯蕭宝巻が刑罰を濫用するようになると、王亮は皇帝におもねって誅戮を免かれた。

永元2年(500年)11月、蕭衍が雍州で起兵した。中興元年(501年)9月、蕭衍が新林に到着すると、官僚たちは争って蕭衍を迎え、誼を通じようとしたが、王亮はひとり孤高を保った。12月、蕭衍は建康に入城したが王亮の罪を問わなかった。中興2年(502年)、蕭衍が霸府を開くと、王亮は大司馬長史・撫軍将軍・琅邪清河二郡太守となった。蕭衍が梁公となると、王亮は侍中・尚書令に任じられたが、固辞して受けず、侍中・中書監となり、尚書令を兼務した。同年(天監元年)4月、蕭衍が皇帝に即位すると、王亮は侍中・尚書令・中軍将軍に任じられ、豫寧県公に封じられた。天監2年(503年)1月、侍中・中軍将軍のまま左光禄大夫に転じた。元日の朝礼に病と称して昇殿せず、別宅で宴会を設けて談笑していた。数日後に、勅命を受けて公卿が見舞うと、王亮は病のそぶりもなかったので、御史中丞の楽藹が不敬を奏上して、棄市の刑に相当すると論告した。王亮は爵位を剥奪されて庶民とされた。

天監4年(505年)夏、蕭衍が華光殿で宴会を開いたとき、尚書左丞の范縝が王亮を任用するようしきりに勧めたが、蕭衍は喜ばなかった。御史中丞の任昉が范縝を弾劾し、蕭衍はこれを是とした。王亮は居宅の門を閉ざして、賓客との交友も絶った。天監8年(509年)、秘書監として任用され、通直散騎常侍の位を加えられた。数日後には太常卿に転じた。

天監9年(510年)1月、中書監となり、散騎常侍の位を加えられた。同年5月、死去した。諡は煬子といった。

伝記資料

  • 『梁書』巻16 列伝第10
  • 『南史』巻23 列伝第13
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